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第20話 きびがわりきゃあのー |
2004.04.01
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青ヶ島の島言葉(正確にいえば八丈方言の中の青ヶ島方言)の中で、おそらく最も奇怪な言葉の一つが「きびがわりいー」であろう。
その言葉を初めて聴いたのは、いつだったかは思い出せないが、自覚して聴いたのは妻が生後一ヵ月の長男を連れて帰島して、しばらく経った昭和47年5月頃のことだった。
たまたま役場へ用事でやって来た静喜オウサマが「菅田さんのアッパメ」を見たいと言い出し、妻がタロウメ(長男の義)を抱いて見せたのである。そのとき、静喜さんは「わっ。きびがわりきゃあのー」と、ニコニコと嬉しそうに言ったのである。
その時点では、青ヶ島には、たとえば「きめぇがめえてしにさうにならら」(気が滅入って気力を失いそうです)とかのように、一見、本土(クニ)の言葉とは似ていても、かなりニュアンスが違う言い回しがあることを知っていた。しかし「きびがわりいー」というような言葉を、実際は、こういうとき使うのだということは正直言って知らなかった。「・・・」という感じだった。
謙次さんだったか、喜久一さんだったか、慌てて「そごん、へんどう言葉を…」と言いかけた、と記憶している。
妻は嬉しそうに「可愛いでしょう」と言うと、静喜さんは覗き込むようにして「かわいきゃあー。こごんどう、可愛いアッパメ、見たことなっきゃあー」と言った。
当時、わが長男は青ヶ島では2〜3年ぶりに生まれた赤ん坊だった。そのため、保育園児とか、小学生ものぞきにやって来た。その一人の、たしか小学2〜3年生の男児も「きびがわりきゃー」と言った。この用例を見ても、ふだん、ほとんど体験したことがない事柄にたいして使われる言葉であることがわかった。
「どこが、きびがわりぃーの」と、子どもたちに訊ねてみたが、小学生にはうまく応えられなかった。そこで、わたしは、元気な生命力に対する畏敬のコトバであろう、と勝手に考えた。ちなみに、わが長男にいちばん年が近い4歳児の言った言葉は「アッパメのドンゴ」だった。「どうして?」と訊くと、「だいどう、しゃべりんのうが」と応えてくれた。
そのうち、たしか高津勉氏の本だったかと思うが、昭和33〜34年のころ、青ヶ島中学校と八丈小島の鳥打、宇津木の中学校の合同修学旅行で上京した話の中で、このコトバが使われていることを知った。このとき彼らは首相官邸で岸首相と会ったりしているわけだが、八丈島から本土の新聞記者が同行した。東京湾に入ってしばらくしてから、青ヶ島の子どもたちは、林立するビル群を見て、「きびがわりきゃあーのー」と言ったのである。新聞記者は島の子どもたちが〈現代文明〉を鋭く批判して「気味が悪い」と言ったと新聞記事にしたのである。
もちろん、今から思えば、昭和33、4年当時の東京のビル群なんて牧歌的なビルである。しかし、青ヶ島の子どもたちは、びっくりしたから「きびがわりぃー」と言ったのである。けっして「気味が悪い」と言ったわけではないのである。しかし、新聞記者はある種の偏見の賢しらの好意から、子どもたちが鋭く〈現代文明〉批判をしたと信じ込んでしまったのである。
たしかに、「きびがわりぃー」のキビの語源は「気味」である。気味のことをキビという用例は、平安中期以降にあるらしく、いっぽう、ワルイは今日とほとんど同義である。ワルイに「強い」という語感があることを差し引いても、新聞記者がそう勘違いするのは、ある意味では仕方ないことだったかもしれない。
内藤 茂著『八丈島の方言』(昭和54年3月20日発行)によれば、「キビガワリイー」とは、「これはたいへんだ。感謝や驚きの意が含まれる」(150ページ)ということになる。
すなわち、生後間もない赤ん坊や、林立するビルを見て、「きびがわりきゃのー」というとき、そこには初めて見る〈不思議なもの〉に対する驚きがあったわけである。「ビックリしたなあ」とか「すげえなあ」といった感じのコトバなのである。キビという語を生かして直訳すれば、「気味がすごく強い」ということである。
小さく可愛く勢いのある赤ん坊や、それまで見たこともなかった都会のビル群を見て、その〈気〉の〈味〉に圧倒されて発せられたのが、この「きびがーわりっきゃあのー」だったわけである。
ところで、昭和46、7年ごろ、わたしは小学生にしばしばシマコトバを通訳してもらったことがある。島言葉でまくし立てられると、完全に異言語だったのである。しかし、平成2年、助役として再び、青ヶ島へ渡ったときは、小・中学生はもう島言葉がまったく使えない状態になっていた。話すことも聞き取ることもできないのである。日常生活で島言葉を使わないからである。
わたしにシマコトバを教えてくれた世代は、もう、親になりかけていたが、彼らもほとんど使わないからである。もちろん、彼らはその気になれば使えるはずだが、彼らの親が孫たちに島言葉を使うと通じないのである。そういう場面に出くわすと、今度は、わたしが子どもへ通訳するということもときどきあった。そのときから、また10年以上が経つわけだが、今、青ヶ島方言はまさに危機に立っているといえよう。
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