目 次
第01話 くさかったはなし
第02話 紫陽花とカンジョシバ
第03話 船に乗り遅れた江戸前鮨
第04話 住所・氏名・生年月日、みんな間違っているよ!
第05話 深夜、島凧の為朝の目は光っていた!
第06話 青ヶ島は民話の宝庫です?
第07話 青ヶ島の特殊公衆電話の秘密
第08話 その日は、誰もが哭いたーー宮本日共議長を”除名”した男の壮絶な死ーー
第09話 青ヶ島村役場の有線放送台での交換業務の風景
第10話 飲み水は天からのもらいもの
第11話 東台所神社の神がぼくを呼ぶ
第12話 昭和40年代後半の青ヶ島村役場の業務と行政無線
第13話 子どもたちの小遣い稼ぎ(?)
第14話 セスナに乗って投票用紙がやって来る--選挙戦三話-
第15話 青ヶ島の哭女(なきめ)たち
第16話 青ヶ島の巫女さんたち
第17話 キキミミ(聞き耳)がよけどうじゃ
第18話 青ヶ島の〈浜見舞〉の饗宴――初めて島へ渡った日の匂いのこと
第19話 青ヶ島の「ジイ」と呼ばれた男たち
第20話 きびがわりきゃあのー
第21話に続く
第11話 東台所神社の神がぼくを呼ぶ
2003.07.01
 
 二度にわたる青ヶ島在住生活の中で最も頻繁に出かけた場所というのは、商店や郵便局や勤務先の役場や、シャンバゥ(三宝港)やチョンテェーラ(長の平)を除けば、おそらく東台所神社ではなかったかと思う。
 第一次在島時代、初めて東台所神社を訪ねたのは、青ヶ島に住み始めて、たぶん半年ぐらい経ってからのことではなかったかと思う。大里神社のほうは地図を見たり村人から聞いたりしてすぐ参拝したが、東台所神社の場合、すぐにはわからなかった。しかし、初参拝後は、最初のうちは月に1回ぐらい、次第に回数は増えていったものの、昭和46年5月から49年1月までの在島期間に30〜40回は訪ねている。
 ところが、第二次在島時代には、そのペースが倍増した。なにしろ、多いときには週に3回、否、1日に2回以上も出向いていることがあるからだ。月平均だと、たぶん4回。平成2年9月から5年7月までの間に、100〜140回は詣でているかもしれない。自分でいうのも変だが、二度の在島で約6年間、これだけ参拝した人はいないのではないか、と自負している。
 わたしの東台所神社への思い入れというのは、昭和47年7月15日発行の謄写印刷・私家版パンフレット『祟神・浅之助の面貌』(平成元年コスモ・テンから刊行した拙著『祟神』に収録)を発表したことで始まった。そして、いつのまにか、青ヶ島の“社人仲間”に迎えられ、わがオボシナサマとして東台所のテンニハヤムシサマ(註1)がソウゼ(奏請)られたことで、青ヶ島の神々の中では最も深い関係性を持つことになった。しかし、第一次在島時代の東台所詣出は、月にならせば、せいぜい1〜2回ぐらいのものだった。
★ (註1)漢字では天野早耳者様などと表記。青ヶ島の固有神で、かつタカガミ(高神=尊神=皇神=ある地域で一番高位の神の義)。明治8年12月28日付けで足柄県から村社の指定をうけたときの祭神名は大巳貴(オホナムチ)神だった。詳しくは拙稿『宗教と信仰』(『青ヶ島の生活と文化』青ヶ島村役場、1984年7月1日刊行)の866〜872ページをご覧下さい。
 だが、平成2年9月、青ヶ島村助役として島へ舞い戻ってからは、東台所詣出は飛躍的に増大した。第一次在島時代から、わたしへの客は相手の様子をみて、青ヶ島を知ってもらうため、大里神社と東台所神社の二ヵ所を案内した。日本の離島の中で最も秘境らしい島だった青ヶ島も、その間の16年の歳月の流れの中で来島者も増え、当然のことながら両社への参拝回数も増えたわけである。しかも、第二次は、公(?)的な客も多かった助役(総務課長事務取り扱い、及び社協事務局長なども兼任)である。
 ところが、第一次の場合、大里神社と東台所神社との参拝回数の比率が1対1.2ぐらいだったのに、第二次になると1対5ぐらいに変化した。それというのも、昼間、来島客を東台所神社→大里神社の順に案内したりすると、夜、大里神社へ参拝したのに東台所には寄らなかった、と呼ばれてしまうからである。もちろん、わたしがそういう気になっているだけなのかもしれない。大里神社→東台所神社という順序なら問題は起こらないのだが、地理的条件もあって、東台所神社の神の都合どおりにはならないのである。そういうこともあって、一日に二度も出かけることになってしまうのだ。
 ひどい時には、午前3時ごろ、しかも土砂降りの雨の中を呼び出されることもあった。雨合羽を着ていても、びしょ濡れになってしまう。懐中電灯もほとんど役に立たない。ほんとうは地下足袋がよいのだが、わたしの場合は運動靴で出掛けた。東台所神社には急な勾配の一直線の丸石段の参道のほか、峰づたいの山道もあったが、東台所神社の神は当然のことながら丸石段の参道のほうを課した。ただし、帰り道のほうの指定はなかった。おかげで、どんな天候状態の中でも、灯り無しで、普通の人の3〜5倍の速さで駆け上ることができるようになった。
 ちなみに、ぼくを呼び出してくるのは、わがオボシナサマのテンニハヤムシサマでも、新神・浅之助でもなく、浅之助の恋人だった「おつな様」である(その三者の関係については、既出の拙稿を参考にしてください)。そして、彼女の呼び出しがあると、東台所神社のチョーヤで祓詞を奏上した。
 ところで、不思議なことには、7月の深夜、東台所神社のチョーヤで祓詞を唱えると、吐く息が白く見えるのである。気温は少なくとも25度くらいはあるはずなのに、である。冬ならば、青ヶ島でも別に珍しい現象ではない。ところが、夏の7月の夜、東台所神社のチョーヤの中だけで生ずるのである。ほとんど同じぐらいの高さにある大里神社では、こうしたことは起こらないのである。
 それは、東台所神社ばかり詣出ていた第二次在島時代のわたしの新しい発見であり、経験だった。

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