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第18話 青ヶ島の〈浜見舞〉の饗宴――初めて島へ渡った日の匂いのこと |
2004.02.01
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艀が小さな突堤に近づくと、突堤は意外に高かった。どうやら引き潮の時間帯だったらしい。ときどき波がガクンと艀を突堤に打ちつけた。その波が高くなったときを見計らって、慣れた者は艀から突堤へ飛び移り、それができない人や女性たちは島の屈強な男たちから引きずり上げてもらうのだ。しかし、そのタイミングが難しい。
わたしは差し出された腕をことわって、勢いよく突堤へ飛び移った。なにしろ、まだ26歳だったし、平衡感覚には自信があった。ところが、突堤の上の濡れた海草(ハンバノリ)に足をとられて滑ってしまった。
「おめえ、だいどう?」
青ヶ島へ上陸した瞬間だった。もちろん、初めて聴く島言葉であった。そして、わたしは自分の名前を名乗った。
「ああ、役場げぇ、おじゃろう人どうか? 一盃、呑もごん?」
後から名前を知ったが、菊池功さんだった。そのとき、その言葉とともに、彼の周囲から異様な臭いが漂ってきた。深呼吸をすると、海の香りに交じって、さまざまな、ちょっと形容し難い臭いが漂ってきた。今思うと、その一つひとつが青ヶ島の匂いだった。島酎や、クサヤや、ニンニクと唐辛子入りの塩辛…等々の匂いであった。
そして、ゴツゴツした岩だらけの、決してお世辞にも港とは呼べそうにもない突堤。屹立した断崖にしがみつくようにつくられている道。青ヶ島の表玄関の三宝港は、まさに“鬼ヶ島”の異名にふさわしい貌をしていた。
当然、かなり不安もよぎったが、わたしの心はすっかり開放されていた。なにしろ、それまで8時間ちかくも、定員4名の船室に20人以上が閉じ込められていたのである。もちろん吐く人もいた。
だが、“青ヶ島”という強烈な異文化は、わたしにカルチュアーショックを与えるどころか、ある種の懐かしさを伴なった、わが精神の故郷ともいうべき、原郷的雰囲気へと誘ってくれたのである。
東京から南へ約360キロ。青ヶ島は、「鳥も通わぬ…」と謳われた八丈島の、さらに南方67キロの太平洋上に浮かぶ絶海の孤島だ。人口はここ30年間ほど、200人を挟んでその前後を往ったり来たりしている。
わたしはこの青ヶ島に、昭和46年5月から49年1月までと、平成2年9月から5年7月までの計2回、住んだことがある。一度目は青ヶ島村役場職員(庶務民生係主事)として、二度目は青ヶ島村助役として生活した。
その間に三宝港の様相も大きく変貌した。しかし、わたしにはその最初の衝撃としての光景がたまらなく懐かしいのだ。それはたんなる懐古趣味からではない。そこには青ヶ島のすべてが凝縮されて展開されていたからである。
じつは、三宝港の荒磯のわずかな空間は、船が入港したときには、祝祭の場となったのである。なにしろ、当時、青ヶ島には東海汽船の船が月2便しか就航しなかった。それもちょっと風が吹いて港が時化たり、汽船会社の配船計画が狂うと、月にゼロ便ということも多かったのである。だから船が来ると、三宝港は人口の80パーセントが入れ替わり立ち代わり参加する饗宴の場と化すのである。
すなわち、艀から小さな突堤へ荷物が降ろされると、その中の幾つは解かれて食料品が取り出され、いっぽう島民たちは思い思いに重箱にご馳走を詰めてやってくる。一ヵ月ちかくも船が欠航して、今頃こんな食べ物がどこに隠されていたのかと思われるようなときにも、ご馳走は出てくるのだ。また、荷役作業の合間には磯から採りたての魚が刺身になって運び込まれ、島独特のタレとともに供される。さらに、あの強い刺激臭の青ヶ島独特の芋焼酎“青酎”(ただし半合法の密造酒時代のもの)や、艀から降ろされたばかりのビールも回され、ひさびさの入港を祝う、文字どおりの祝宴となる。これを〈浜見舞〉というのである。そして、あのニオイもここから生じてきたのである。
もちろん、この祝祭の空間は、神聖なる労働の場でもあり、時には恐ろしい修羅場でもあった。中学生や、小・中学校の教員も手伝いにやってきた。とくに、中学生の女子には働き者が多かった。ロープと木切れを使って、荷物を役牛(ベコ)の背に付けるのだ。それは芸術的ともいえる技術だった。そして、牛がときどき尿(ゆばり)する飛沫を被らないように避けながら、牛を追って急勾配の坂道を登って行く。また、艀作業の手順をめぐっての喧嘩も生ずる。
そうした喧騒の中で、歓送迎者が入り乱れての〈浜見舞〉の祝祭が繰り広げられるのだ。そこでは、青ヶ島という島共同体を構成する人たちの、本当の実力とか、本当の心の豊かさ…等々が試されていたのである。
その光景を初めて目にしたのは、昭和46年5月10日のことだった。その後、47年8月から村営連絡船「あおがしま丸」が0と5の付く日に就航するようになり、いまでは伊豆諸島開発KKの「還住丸」が凪ていれば毎日運航される。貨物船も荷役作業が機械化されて、以前は人力で一日がかりでやっていたのが2時間もあれば終了する。そのため、かつての〈浜見舞〉の古風は消え、今はときどき親しい仲間どうしで行なうバーベキュ風の“浜遊び”へと変貌しているが、わたしはあのときの光景と匂いがたまらなく好きだ。
この文章は、(財)日本海事広報協会の隔月刊の雑誌『LA MER(ラメール)』(1999年1月・2月号)に発表したもので、今回、若干、手直しをしました。なお、この原稿の依頼主はわたしが助役をしていた頃、青ヶ島村役場に1年だけ在職した淡路栄一さんでした。
今年の5月で、この文章の冒頭の光景から数えて、ちょうど33年目になります。
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