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第17話 キキミミ(聞き耳)がよけどうじゃ |
2004.01.01
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網野善彦著『日本中世に何が起きたか―都市と宗教と「資本主義」』(日本エディタースクール出版部、1997年)を読んでいると、その180ページに、わたしの友人でもあった村山道宣氏(民俗音楽研究)の名前と青ヶ島のことが出てきた。網野氏によれば、「音の民俗学」を開拓している村山道宣氏の話として、「…小さな神の声を聞くことができる特別な…特異な耳を持ち、神の声を聞くことのできる呪的な聴覚能力者」のことを、青ヶ島では「聞耳」と呼んでいる、というのである。わたしのおぼろげな記憶によれば、村山氏はたしか昭和52年ごろ青ヶ島を訪ねたさい、たぶん金毘羅様で採った祭文の録音テープを、わたしに聞かせてくれた。ただし、彼によれば、録音の途中、霊的現象で寸断しており、そこの部分を教えてほしい、とのことだったと思う。
わたしがその部分を口真似すると、かれは違うというのであった。そして、かれが逆にそこを口真似した。それに対し、こんどは、ぼくが違う、と言い返した。そのとき、その場に、青ヶ島村教育長を辞めたばかりの加藤五十子さん(現、水野姓)がいたのだが、彼女が言うには、「村山さんのは次平さんの旋律、菅田さんのは全体的にはそう聞こえる」という判定だった。そのとき、わたしは、のぶゑさんや、キミ子おばさんから「菅田さんは聞き耳がよけどうじゃ」と言われたことを思い出し、その話をしたのである。
最初にそう言われたのは、たしか昭和47年の6月ころのことだった。朝の5時ごろ、耳元で人の話し声が聴こえてきたのである。びっくりして目を覚ましたが、何やら漁のことについて話していることだけは判った。神子ノ浦の沖でカツオを獲っている漁船からの声だった。家のオリ(石垣)の外側に出て、その船を確認してみたが、直線で少なくとも300mは離れていた。それなのに、声はよく聞こえたのである。
その日の午前中、役場で、そんな話をしていると、キミ子おばさんがやってきて、「変どう話どうじゃ。あが聞きんじゃらあて…」と不思議がっていた。そこへ「あがも、ちいっと聞いただらら」と謙次さん。喜久一さんは「とんめてい(古語のツトメテと同源=朝の義)、神子ノ浦しゃんげぇ大分県の漁船が来ていとうじゃ」と、問題の漁船がどこの船だか教えてくれた。
わたしは、たぶん一定の気象条件が重なれば、聞こえることもあるのではないか、と少々、理屈っぽく話したのだが、そのときキミ子おばさんは「めんどう話はわかりんのうが、だいどう、菅田さんは聞き耳がよけどうじゃ」と言ったのである。
次に、そう言われたのは、同じ年の9月中旬のことだった。8月に就航したばかりの村営連絡船あおがしま丸(50t)が、エンジン・トラブルで途中で引き返す、ということがあった。
その日の午前中、わたしは友人の吉田武志さんが乗ったその船が、エンジン・トラブルで引き返すのではないか、と思って役場でそういう話をしていた。海はベタ凪で、欠航とか出戻りなんて、ありえなかった。午前11時ごろ、わたしは老人福祉関係の仕事で、廣江のぶゑさん宅を訪ねたが、のぶゑさんから「まは、あおがしま丸ができて便利にならら」といわれた。わたしはそのとき、のぶゑさんにも「船は来んことうになりさうだらら」と答えた。「ふじゃあけなー。けいは凪だらら」と、のぶゑさん。それにたいして、わたしは「エンジンのバネがポキンと折れて、たぶん出戻りになろわ」と答えたのである。
そして、何と、そのとおりになってしまったのである。たしか午後0時半ごろ、船長から無線が入り、エンジン不調で八丈島へ引き返す、という連絡が入り、その旨、有線放送されたのである。エンジンはその日のうちに応急処理され、翌日無事、就航し、わたしの友人も一日遅れで来島したが、かれは船内でポキンという音を聞いたと言うのだ。そして、その日、のぶゑさんと出くわすと、「菅田さんって、聞き耳がよけどうじゃ」と言われたのである。
そのときから、青ヶ島で一番の霊力を持った巫女・のぶゑさんが「けいは、船は来(き)んじゃらあってか」と、逆にわたしに訊ねるようになったのである。たしかに、わたしのオボシナサマは「聞耳」ではなく「早耳」の、天野早耳者様(テンニハヤムシサマ)である。しかし、わたしは、網野氏の本を読むまで、この〈キキミミ〉という概念が民俗学的に大事なものとは全然、思わなかったのである。ましてや、青ヶ島に〈キキミミ〉という超能力があることも忘れていたのである。もちろん、フォークロアの採取には、ときどき〈聞き耳〉を立てることが必要である、ということは理解していたけれど、自分に関係がある能力とは考えてもみなかったのである。
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