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第15話 青ヶ島の哭女(なきめ)たち |
2003.11.01
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青ヶ島では、葬儀のとき、哭女が現われる。初めて、その光景を目にしたときは、正直いって目を疑った。じつに、堂に入った泣きっぷりなのだ。そのころ、わたしは『古事記』をしばしば読んでいたが、よもや『古事記』と同じ光景が目の前で展開されるとは思ってもみなかったのである。『古事記』によれば、天若日子(あまのわかひこ)が返し矢にあたって亡くなったとき、喪屋を作り、河雁を岐佐理持(きさりもち。食器を持つ人)とし、鷺を掃持(ははきもち。箒を持って穢れを掃く人)とし、翠鳥(をにどり)を御食人(みけびと。調理人)とし、雀を碓女(うすめ。臼を搗く女)とし、雉子(きぎし。キジ)を哭女とし、「八日夜八夜(やかやよ)を遊」んだ、という記述がある。
青ヶ島の哭女は、通夜や葬儀のあとの出棺のとき、物陰からオイオイ、エンエン、ウォーンウォーンと泣く。とても感情が籠っているのである。中には、大粒の涙を流す哭女もいる。まさに、慟哭といった風情なのだ。天若日子の妻の下照比賣(したてるひめ)の哭く声が天まで届いたように、青ヶ島の哭女も人前も憚らず大声で泣くのである。青ヶ島の出身でない人は、思わず、これって演技なのか、それとも本心なのか、と疑うほどに激しくなくのである。それも一人や二人ではないのだ。数人が思い思いに感情のたけをぶちまけるのである。感情移入の共同性ということはありえるが、初めて見る人には、やはり、どうしても疑問が残ってしまうようだ。
かくいうわたしも、同世代の教員などには、あれが青ヶ島の人の悼み方だと説明したが、若干の疑問も残っていた。それが昭和57年、解消した。青ヶ島から東京へ移住した家族を訪ねたことがあった。10年前、中学生だったその家の少女は立派な女性になっていたが、仕事から帰ってくると、飼い猫がいなくなったと捜し始めた。猫の名前を呼びながら、庭や近所を探し回ったらしい。30分ほど探し回っていると、その家の勝手口の小さな通路付近に猫の死体があった。どうやら毒を飲まされたらしい。きのうから見えなくなっていたのだという。
彼女は猫の遺体を抱きかかえると、まるで哭女のように、猫の名前を呼びながらオイオイ、ワーワー、エンエン、あらん限りの声を振り絞って、母親が止めようとしているのに、30分以上も泣いたのである。それは、一見、異常ではあるものの、じつに美しい光景だった。このとき、わたしは、彼女の中にミコケ(青ヶ島の巫女になりうる素質)を見出したのだが、そこに青ヶ島の哭女の本質を見たのである。
彼女もそうだったが、青ヶ島の哭女も激しく泣いたあとは、じつに、あっけらかんとしているのである。そこが外部の人に〈演技〉かと疑われる根拠になってしまうのだが、わたしの感じるところ演技ではない。神が憑依して、彼女たちを激しく哭かせるのである。
その意味では、一種の演技であり、哭くという技術かもしれない。しかし、それは迫真の演技ではない。神が哭女をして演じさせるのである。彼女たちは、神になりきって、人間の悲しみを引き受けて哭くのである。
青ヶ島では、ときどき、ボーサマがいないことがある。昭和48年に廣江義秀さんが亡くなったあとは、坊様役のボーサマがいない時期があった。役場職員で僧籍をもった人がボーサマを勤めることはあるが、ボーサマがいなくても哭女がいれば、亡き人の霊魂はその哭き声に乗って天へ駆け上ることができるのではないか、と思われる。下手なお経よりも、哭女の泣き声のほうが魂を揺さぶるのである。一種の大念仏(南無阿弥陀仏と称名することが念仏ではない。鉦や太鼓で遊ぶことが大念仏)なのだ。ここには、古代のモガリの風が遺っている。哭女の泣き声は、死者にとって、何よりの供養なのだ。
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