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第1話 くさかったはなし |
2002.09.15
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平成2年の、たぶん11月下旬か、12月上旬のことだった。冷たいフユニシが吹き始める前の、ヒヨドリ凪(なぎ)の小春日和の日だった。菊池松太郎さんが笑いをこらえきれないといった表情で、ふわっと現われた。
「きねい(きのう)、イケンソウ(池之沢)で仕事をしていたんだけど、産業倉庫の横のカンジョ(便所)の通気用の煙突からケムリが出ていたんだよ。
最初は、池之沢(青ヶ島の二重式火山のカルデラ地帯の総称)のフンカ(その内輪山周辺の噴気孔群から立ち昇る蒸気)かと思っていたんだ。それにしては、色がだんだん濃くなるし、勢いも強くなる一方だ。まるで本当の煙みたいに出てくるんだ。それで、ひょっとしたら、火事かもしれないと思って、駆けつけたんだ。そうしたら、ほんとうの火事のように、煙が立ち込めているんだ。同時に駆けつけたやつが『こりゃあ、ほんとの火事だ、たいへんだ』と言いながら、産業倉庫にしまってあった消防ポンプを引きずり出して、天水タンクの水を煙に向ってかけ始めたんだ。でも、いっこうに、煙はおさまらない。そこで、火元と思われる便所のドアを開けて、便器に向って放水したんだ。かなり放水したら、火はようやく消えたんだけど、ウッフッフー、臭いの、臭くないの、もうメチャクチャに臭いんだ.ウッフッフー、たぶん、誰かがクソをしながら、タバコを吸っていたんだね。お尻を拭いたあと、火の付いたタバコの吸いかけを便壺の中に捨てたんだ。それで、トイレットペーパーなどの紙に火がついたんだ。このところ、雨が降らなかったろう。それに、フンカの地熱でクソや紙が乾いて、そこにタバコの火が付いたものだから、ウッフッフー、たまらない。まさに、ヤケクソ(焼け糞)だ。クソって、半焼けとか、半煮えの状態が、いちばん臭い。
もう、メチャクチャに臭くなる。ウッフッフー、乾いたクソに水をかけるもんだから、元に戻っちゃたんだ。地熱と、トイレットペーパーやクソじたいが燃えるときの熱で、クソが茹でられちゃったんだ。途中で気が付いて、もう水をかけるな、と言ったんだけど、後の祭り。ドロドロの、クソ交じりの、湯気でホッカホッカの水が汲み取り口から溢れてきて、臭くて、臭くて…ウッフッフー、ゲラゲラ…。こんなヒドイ目に遭ったことはないよ…。」
この話をしてくれた菊池松太郎さん(昭和28年生まれ)は、雑貨店の菊池商店の店主で、当時も今も村会議員。池之沢で雑木を伐採して炭焼きをするほか、農・漁業、土木にも従事。青ヶ島の島民はひとり何役もこなすが、彼の仕事振りは何をやっても中途半端のものはひとつもない。
ちなみに、フユニシとは、冬の北西の季節風のことである。これが吹き始めると、海が洗濯板のようになって、白く泡立つ。気温は東京に比べると、冬季は2〜3℃高いが、風速は最低でも8mを超えることから体感温度は逆に低くなる。そして時折、霰や雹まじりの雨が島肌を激しく叩きつける。日中、そうした天候をもたらした雲が通り過ぎると、海の上に実に綺麗な虹が立つ。
昔は、このフユニシが吹くと、欠航が長く続いた。ぼくは昭和47年1月から3月にかけて39日間の船ナシ生活を経験。3月に入ってから何通もの年賀状をもらったことがある。
いっぽう、ヒヨドリナギというのは、11月頃の、海が比較的に穏やかな凪の状態になることをいう。そのころ、ヒヨドリが飛んでくるからだとか、日和の良い日が続くからだとか言う。ヨモギの茎に舟の艫綱を結び付けておいても、波に取られる心配もないほどの凪の日がつづくからだ、と言われている。
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