目 次
第01話 くさかったはなし
第02話 紫陽花とカンジョシバ
第03話 船に乗り遅れた江戸前鮨
第04話 住所・氏名・生年月日、みんな間違っているよ!
第05話 深夜、島凧の為朝の目は光っていた!
第06話 青ヶ島は民話の宝庫です?
第07話 青ヶ島の特殊公衆電話の秘密
第08話 その日は、誰もが哭いたーー宮本日共議長を”除名”した男の壮絶な死ーー
第09話 青ヶ島村役場の有線放送台での交換業務の風景
第10話 飲み水は天からのもらいもの
第11話 東台所神社の神がぼくを呼ぶ
第12話 昭和40年代後半の青ヶ島村役場の業務と行政無線
第13話 子どもたちの小遣い稼ぎ(?)
第14話 セスナに乗って投票用紙がやって来る--選挙戦三話-
第15話 青ヶ島の哭女(なきめ)たち
第16話 青ヶ島の巫女さんたち
第17話 キキミミ(聞き耳)がよけどうじゃ
第18話 青ヶ島の〈浜見舞〉の饗宴――初めて島へ渡った日の匂いのこと
第19話 青ヶ島の「ジイ」と呼ばれた男たち
第20話 きびがわりきゃあのー
第21話に続く
第12話 昭和40年代後半の青ヶ島村役場の業務と行政無線
2003.08.01
 
 昭和40年代後半の青ヶ島の電話事情についてはこれまで何回か紹介したが、役場には島外電話(公衆電話)が一本しかなく、当然のことながら島民も同じ回線を使うので、いつも混みあっている状態だった。都庁とか八丈支庁とか、あるいは伊豆諸島・小笠原の町村役場へ連絡をとろうにも、電話ができないということもしばしばであった。そういうときは行政無線が威力を発揮した。
 午前8時半、役場の有線放送電話の交換台のある部屋の行政防災無線のスィッチを入れると、通話中のランプがつく。青いランプのときは通話可能、赤のときはどこかが使っているのである。というのも、青ヶ島の回線はたしか利島と御蔵島と共有していたからである。利島村や御蔵島村では、すでに電電公社の固定式電話が世帯数ぐらい導入されており、役場でも独自の複数回線を持っていた(この点でも、青ヶ島はまさに隔絶された離島だったわけである)。しかし、行政無線は使う役場にとっては只である。したがって、行政無線も混みあっていることが多かった。
 行政無線を使うときは、空線になっているかどうか、を確認したあと、通話のレヴァーを引いて「青ヶ島から都庁さん」と、都庁の行政防災無線の管理室が出るまで呼び続ける。都庁が出たら、たとえば国民年金第1課の何々係の誰某さんと指定する。そうすると、内線に切り替えてくれるわけである。利島村役場や御蔵島村役場とも話すことができるが、同じ回線を使っているので、ちょっとややこしい。たしか有線放送電話の親子(世帯は別だが同一番号)の人が同じ番号の相手へ掛けるときと同じやり方であったと思う。
 さて、行政無線はこちらから都庁へ掛けることもあったが、向こうから掛かってくることのほうが多かった。その用件というのは大概、回答書類の未提出が原因だった。たとえば、「あのー、もう1ヵ月ほど前に速達で出してあるのですが、回答期限が過ぎているのですが…」というような内容の催促である。
 ところが、こちらとしては、そんな書類なんて見たことがないのである。「発送された日にちはいつでしょうか。×月×日以降、船が入っていないので、書類じたいをみていないのですが…」と答える以外すべがない。けっして怠けているわけではない。
 「該当なし」で処理できるものならよいが、いつもそういうものばかりではない。その場ですぐ返事ができるものなら良いが、調べないと答えられないものもある。そういうときは、相手のいうことをメモし、1〜2時間後に行政無線で回答することもある。そして、回答すると「書類はこちらで作成しておきますから、カガミだけは送ってください」と言われる。
 カガミというのは、書類の発送番号と日付、書類のタイトル、そして公印が押してある一種の表紙のことである。それがないと、公文書にならないからである。ともあれ、そういう催促の行政無線が掛かってくると、やっていた仕事をとりあえず中断して、それを優先しなければならない。多いときには、そういう催促が何本もあることがあった。
 じつは、当時の青ヶ島村では、カガミをつくるのもちょっとした仕事だった。カガミは必ず2部作って、そこに割り印をしなければならない。今ならワープロやパソコンで書類を作ってコピーをすれば出来上がりだが、当時の青ヶ島村には壊れかけた青焼きの機械しかなかったのだ。しかも、24時間発電ではなかったので、ほとんど戦力にならなかった。カーボン用紙を下に敷いて、ボールペンにやや筆圧を込めて2部つくるわけである。
 役場に入って1年ぐらい経ったころから、わたしは毎日、自分の本来の仕事(国民年金。国民健康保険、福祉全般etc担当の庶務民生係)を含めて、毎日3〜7通ぐらいの書類(公印を押さないもの)を作っていたように思う。当時、役場は庶務民生係2名、産業会計係2名という布陣だったが、誰の担当か判らないようなもの一切を引き受けてやるようになっていたからである。
 船が来ると役場宛ての郵袋がドカンと何袋も放り込まれる。それを会議室の床にぶちまけて、発送先を見ながら、ダンボールに仕分けする。青ヶ島村は小なりといえども地方自治体である。大小に変わりなく、東京都や関連団体からの書類が届く。ちょっと船がこないと、郵便物はうんざりするほどの量になってしまう。全部をあけるのが本筋だが、催促電話が掛かってくるといけないので、勘を働かせて重要そうなものをまず開き、それを受付簿に記載して、処理すべき書類は片っ端から処理していく。時には、次の船が順調にすぐ来てしまうことがある。そうなると、受付がまだ終わっていないうち、つぎの書類がたまってしまうこともあった。ちなみに、書類の受付もわたしがすべてやっていた。そして、定期船(伊豆諸島開発の貨物船)が来ると、男性職員4人は皆、朝は5時ごろから夕方の6時ごろまでかなりの重労働の荷役作業に従事した。どうしても、書類整理に追われる日々だった。
 昭和48年2月、美濃部都知事が都知事として急に初来島したときには、来島がその前日の夕方に決まったということもあって、処理中の書類をダンボールに押し込んで倉庫へ一時避難させた。ところが、そっれきり出てこなかった書類もあったのである。
 そうでなくても、船が来ると、役場への郵便物は床いっぱいになる。わたしが仕分けしていると、島民が同情半分に「もう、よっきゃあ。そごんどうものは、ぶっちゃりやれにぃー」と声を掛けてくれた。もちろん、そうはいかないのである。第1次在島時代のわたしは、東京にいる友人たちからはひじょうにのんびりと仕事をしているように思われていたが、じつはとんでもないほど多忙の生活をしていたのである、もちろん、それも今となっては懐かしく楽しい日々であった。

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