目 次
第20話
第21話 天野社と葉山信仰――あるいは、青ヶ島の天野早耳者様(テンニハヤムシサマ)と葉山八天狗(ハヤマハチテング)との関係――
第22話 青ヶ島の消えた点景の想い出
第23話 青ヶ島はユニハである
第24話 ふたつのオリンピックのころ
第25話 郵便物を出すときの不安について
第26話 続・郵便物を出すときの不安について---無番地ということ---
第27話 双丹姓の謎と青ヶ島の「でいらほん流」
第28話 伝説・青ヶ島保育所のオルガン
第29話 カナヤマサマと金山祭り
第30話
第21話 天野社と葉山信仰
――あるいは、青ヶ島の天野早耳者様(テンニハヤムシサマ)と葉山八天狗(ハヤマハチテング)との関係――
2004.05.21
 
 4月6日(火)午後、東京・上野の国立博物館で特別展「空海と高野山」を拝観した。高野山の三大秘宝や、同時併設の「高野山天野社の仮面と装束」展など、興味深い展示がたくさんあった。しかし、わたしの頭の中は、途中から“天野社”という言霊だけが駆け巡っていた。
 天野社は、高野山の鎮守で、地主神の丹生都比賣(にゅうつひめ)を祀る。ニュウ(丹生)=丹は水銀の義である。弘法大師が初めて高野山へ登ったときに現われて、大師を高野山へ導いたといわれている。
 和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野に鎮座し、紀伊国の一ノ宮で旧社格・官幣大社である。『延喜式』神名帳の「紀伊国伊都郡」の「丹生都比女神社(名神大。月次。新嘗。)」に比定されている古社である。江戸中期の漢方医で博物学者の寺島良安(生没年不詳)の『和漢三才図会』巻第七十六(平凡社東洋文庫『和漢三才図会13』1989年)によれば、次のようである。
「丹生(にう、にぶ)明神 高野山(同右)にある。天野(あまの)社と号する〔高野の鎮守である〕。
祭神二座 丹生都姫(にうつひめ)神〔北〕・高野(たかの)明神〔南〕
右二神は夫婦ともいい、母子ともいい、分明ではない。
大師が始めて高野に登った時、丹生神に逢った。神は、我は丹生津姫である。我が子を高野童男(ふとな)という、と言った。弘仁十年(819)五月三日、大師の勧請敬白文があるという。元暦三(ママ)年(1186)神階正一位となる。
四所明神〔第一丹生明神・第二高野明神・第三気比(けひ)明神・第四丹生明神の子(厳島(いちきしま)大神)〕
この格子の内に十二王子社がある。
〔八王子・土公(どくう)神・大将軍・皮張明神・皮付明神・八幡・熊手・金峯・白山・住吉・信田(しのだ)・西宮〕また、百二十伴社がある。」(同書、267〜268ページ)
 おそらく、童男はフトナではなく、ヲグナと訓むべきであろう。ちなみに、わたしはここ10年以上、古代の技術神(技能神・技芸神を含む)と差別問題に関心があり、この「十二王子社」の神々には目移りがしそうだ。そして、大将軍の場合、「天理教」誕生の背景と関係があるかもしれない。
 さて、青ヶ島に、この「天野」を冠した神が祀られている。東台所(とうだいしょ)神社のイシバに祀られている天野早耳者様(てんにはやむしさま)である。ところが青ヶ島では「天野」と書いて「テンニ」と訓むのである。
 詳しいことは、『青ヶ島の生活と文化』(青ヶ島村教育委員会、1984年)所収の拙稿「宗教と信仰」の〈東台所神社〉の項(866〜872)をご覧になっていただきたいが、通称ハヤムシは東台所神社が明治8年12月28日、足柄県から村社の指定をうける以前の祭神である。すなわち、そのとき青ヶ島の固有神ハヤムシは大己貴神(おおなむちのかみ)という神名を持つことになったわけだが、島民は東台所神社の祭神がオホナムチであることを知らず、テンニハヤムシサマを崇敬しつづけてきたのである。
 わたしは青ヶ島の神々の中に熊野信仰の影響を感じてきたが、今回の「空海と高野山」展を見学して、熊野ばかりではなく、高野山の影も及んでいるのではないかと考えるようになった。というよりも、熊野と高野山をひとつのものとして捉える必要があると感じたのである。それは、訓みが違うが、ハヤムシが「高野」の名を冠しているからである。
 それと同時に、侮れないのは、東北地方のハヤマ信仰である。なぜなら、青ヶ島のハヤムシは葉山八天狗の別名をもっており、巫女さんの多くは葉山八天狗の名のほうで信仰してきたからである。ちなみに、福島、山形、宮城、岩手の各県には、葉山・羽山・麓山などと記されるハヤマと呼ばれる山があって信仰されている。有名なところでは、かつての出羽三山である。現在は、羽黒山、月山、湯殿山の三山をさすが、かつては湯殿山の替わりに山形県村山市の羽山が入っていた。
 これらのハヤマ信仰には、出羽修験の羽山系の修験者が係わってきたらしいが、おそらく青ヶ島の葉山八天狗にもその影響があったものとおもわれる。というよりも、熊野・高野・葉山の信仰が混交した形で、青ヶ島へもたらされたと考えたほうがよいかもしれない。青ヶ島の神道は、明治の神仏分離以前の習合神道を色濃く伝えているが、最近のわたしの予感では陰陽道の影響を強く受けた修験道が反映しているように思える。青ヶ島神道の類稀なる卜部の故・廣江次平さんが遺した〈祭文・経典〉類を、これからは分析していかなければならないだろう。

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