目 次
第01話 くさかったはなし
第02話 紫陽花とカンジョシバ
第03話 船に乗り遅れた江戸前鮨
第04話 住所・氏名・生年月日、みんな間違っているよ!
第05話 深夜、島凧の為朝の目は光っていた!
第06話 青ヶ島は民話の宝庫です?
第07話 青ヶ島の特殊公衆電話の秘密
第08話 その日は、誰もが哭いたーー宮本日共議長を”除名”した男の壮絶な死ーー
第09話 青ヶ島村役場の有線放送台での交換業務の風景
第10話 飲み水は天からのもらいもの
第11話 東台所神社の神がぼくを呼ぶ
第12話 昭和40年代後半の青ヶ島村役場の業務と行政無線
第13話 子どもたちの小遣い稼ぎ(?)
第14話 セスナに乗って投票用紙がやって来る--選挙戦三話-
第15話 青ヶ島の哭女(なきめ)たち
第16話 青ヶ島の巫女さんたち
第17話 キキミミ(聞き耳)がよけどうじゃ
第18話 青ヶ島の〈浜見舞〉の饗宴――初めて島へ渡った日の匂いのこと
第19話 青ヶ島の「ジイ」と呼ばれた男たち
第20話 きびがわりきゃあのー
第21話に続く
第6話 青ヶ島は民話の宝庫です?
2003.02.01
 
 旅の文化研究所の季刊『まほら』No.34(平成15年1月1日発行)の“あるく・みる・きく”のコーナーに「伝説・青ヶ島保育所のオルガン」を書いたが、本HP管理人の吉田吉文さんから次のような感想が寄せられた。
「恐ろしく記憶力のいい人たちが住む青ヶ島は民話の宝庫だった。青ヶ島に民話が少ないと評されるのは、個々のエピソードが持つ生々しさが熟成する時間が足りなかったか、それとも受け取る側のイマジネーションが不足していたのか、話者の語る気をなくさせてしまったのか。
 奥山直子さんの『おばあちゃんから聞いたはなし』や、浅沼キミ子さんの自慢話を聞き流していた自分はつくづく力不足だったのだと思います。」
 もちろん、吉田氏だけではない。ぼく自身の問題でもある。そして、このことに関して、ちょっとした想い出がある。昭和47年7月ごろ、某私立大学の4年生が役場を訪ねてきた。「卒論に青ヶ島の民話を取り上げたいのですが、青ヶ島には民話はあるのでしょうか。」
 それにたいし、「ありますよ。ただし、民話という概念を、どう定義するか、が若干問題ですけど、宝庫といってもよいかもしれません。年寄りに、昔の話を教えてもらうつもりで発掘して下さい」と、ぼくは答えた。
 だが、しばらくして、かれが廣江組で働いている、という話を聞いた。そして、10日ほど経って、船が出るという日、再び、役場を訪ねてくれた。
「残念ながら、青ヶ島に民話はありませんでした。」
 ぼくはビックリして、「君って、ひょっとしたら、島の人に“民話”を教えてください、と言ったんじゃあないの。昔の話を聞かせてくださいと、なぜ言わなかったの」と訊ねた。
 ぼくの危惧は的中した。案の定、彼は島の年寄りに「民話を教えてください」と言って、「そごんどうものは、なっきゃ」と言われてしまったようだ。すなわち、その時点でまったく会話が成立せず挫折してしまったのだ。さらに、青ヶ島方言がわからなかったのも、それに拍車をかけた。
 もっとも、かくいうぼくも、何度聴いても、まったく要領を得ない民話もあった。頭に残ったのは、活字にすれば、たった1行の、20字から50字前後の断片的な民話である。もちろん、一行でも大河的内容を表現することも可能だし、民俗学的には一行でも多くのことを語ってくれる場合もある。長さには関係がないのである。
 たとえば、こんなことがあった。昭和47年の春ごろ、近藤富蔵の『八丈実記』第二巻(緑地社、昭和44年)を読んでいると、その153ページに「大川ノ沢ト申所ニ井戸有之、是ハ弥次郎掘ル由四郎右ェ門代ニ井戸ヨリ川太郎出シヲ四郎右ェ門切捨ニ由申伝タリ…」という記述があった。これを直訳すると、「池之沢の大川ノ沢というところに井戸があって、これは弥次郎という人が掘ったものである。四郎右ェ門の代のとき、井戸から河童(川太郎)が出現し、四郎右ェ門が切り捨てたと伝えられている」ということになるだろう。天明の大噴火以前には、青ヶ島の池之沢には大池・小池という二つの火口湖あったので、河童棲息の伝説があってもおかしくないので、役場での仕事をしながらの雑談中「青ヶ島にも河童伝説があるのですね」と言うと、奥山喜久一さんが「河童については佐々木一郎さん(当時、村議会副議長、のち議長。昭和60年から村長を1期。ぼくが助役のとき、無理をお願いして教育委員をしていただいた)が詳しいので聞くとよい」とアドバイスしてくれた。
 そこで、一郎さんに河童伝説について質ねたところ、「ワッ、菅田君、ワッ、河童、河童、河童のことも知りんじゃらてーか、困ったことう、ワッ、河童、河童、菅田君もへんどうことを聞くもんじゃらあて、ワッ、河童、カワに出るどうじゃ、河童、河童、カワで遊んでいる子どもの尻を狙うどうじゃ…」というのである。そして、河童伝説はそれ以上、まったく進んでいかないのである。その後、一郎さんには何度も、その話を向けてみたが、いつも同じような繰り返しばかりで、いっこうに埒がつかなかった。そして、話は一郎さんの子ども時代へ飛んでしまうのである。そういうときの一郎さんは、まったく島言葉の中の島宇宙へ入り込んでしまうのである。こうなると、当時の(そして今も)、ぼくの覚束ない言語把握能力ではお手上げだった。しかし、その島言葉の断片をつなげていくと、つぎのような話が浮かび上がってくる。
「青ヶ島では大雨が降ると、急な坂道は滝のように流れていく。それが窪地へ落ち込むと、雨が上がったあと、しばらく小さなプールになる。昔の子どもたちは、それをカワとよんで、しばしば水遊びをした。そんなカワ遊びをしていると、ときどき河童が子どもの尻を狙った。」
 おそらく、子どもはカワ遊びのとき、泥水を飲んでお腹を壊したり、急にお腹を冷やしたりして下痢症状を起こしたのであろう。そういう現象が河童伝説と結び付いたのかもしれない。とにかく、青ヶ島にも、河童伝説は存在したのである。
 ところで、河童伝説ではないが、青ヶ島には「子どもが大鷲にさらわれた」という伝説もある。まだ、ぼくが20代のころ、故・菊地梅吉翁と歩いていると、「ここで、ウチの先祖の子どもが遊んでいたら、とつぜん大鷲が飛んできて、子どもを連れ去って行った」というのである。そして、この話も、何度聴いても、それ以上には、進展していかなかったのである。もちろん、その子がその後、どうなったのか、その子の名前はなんていうのか…等々も、まったくわからないのである。しかし、梅吉さんの先祖の子どもがワシに連れ去られたという場所には、石積みの塚のようなものがあって、その話がその塚の縁起由来になっているのである。すなわち、伝説の骨格だけは現に生きているわけである。
 ちなみに、ワシに関してなら、つぎのような想い出がある。昭和49年1月ごろ、まだ若いオジロワシが青ヶ島に飛来し、中村倉一さんの家のニワトリ小屋を襲撃しているところを、倉一さんがオジロワシであることを知らず、ただ無我夢中にオジロワシを棒で叩き落としてしまう、という事件が発生した。わたしはその一日後に死んでしまったオジロワシを東京都八丈支庁へ送ったが、その後、そのオジロワシは剥製となって支庁ロビーに飾られた。

 
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