目 次
第01話 くさかったはなし
第02話 紫陽花とカンジョシバ
第03話 船に乗り遅れた江戸前鮨
第04話 住所・氏名・生年月日、みんな間違っているよ!
第05話 深夜、島凧の為朝の目は光っていた!
第06話 青ヶ島は民話の宝庫です?
第07話 青ヶ島の特殊公衆電話の秘密
第08話 その日は、誰もが哭いたーー宮本日共議長を”除名”した男の壮絶な死ーー
第09話 青ヶ島村役場の有線放送台での交換業務の風景
第10話 飲み水は天からのもらいもの
第11話 東台所神社の神がぼくを呼ぶ
第12話 昭和40年代後半の青ヶ島村役場の業務と行政無線
第13話 子どもたちの小遣い稼ぎ(?)
第14話 セスナに乗って投票用紙がやって来る--選挙戦三話-
第15話 青ヶ島の哭女(なきめ)たち
第16話 青ヶ島の巫女さんたち
第17話 キキミミ(聞き耳)がよけどうじゃ
第18話 青ヶ島の〈浜見舞〉の饗宴――初めて島へ渡った日の匂いのこと
第19話 青ヶ島の「ジイ」と呼ばれた男たち
第20話 きびがわりきゃあのー
第21話に続く
第7話 青ヶ島の特殊公衆電話の秘密
2003.03.01
 
 このタイトルは少々、ミステリアスな響きを持っているかもしれない。
 さて、わたしが初めて青ヶ島へ電話をしたのは、昭和46年の3月下旬のことだった。朝日新聞の求人欄の青ヶ島村の職員募集広告に応募して履歴書を送り、当時の奥山治村長から採用通知の電話をもらい、その打ち合わせを電話でするためだった。
 当時、青ヶ島村役場の電話は、「特殊公衆青ヶ島東」と呼ばれていた。東京から電話する場合、まずダイヤルの105番を回すと、電電公社の交換台が出る。「特殊公衆電話青ヶ島東をお願いします」と申し込むと、女性交換手が必ず「只今、輻輳していますので、しばらく電話を切って、お待ちください。空いたら、こちらからおつなぎします」と答える。そう、ずっと昔の、海外電話=国際電話と同じなのだ。ただ、青ヶ島の場合、海外ではなく海中(わたなか)にある、という違いだけだ。
 初めて青ヶ島村へ電話したとき、わたしはその答えをまともに受けて、電話の前で待っていた。トイレへ行きたくなっても、いつ掛かってくるかもしれないので、じっと我慢した、10分、30分、50分。1時間半、2時間半、3時間…。
 まったく電話は鳴らない。待ちきれなくなって、再び「105」を回す、「あのー、午前8時半ごろ、青ヶ島特殊公衆東に申し込んだのですが…」というと、「ちょっと待ってください。まだ混んでいます…」。しかし。その10分後、こんどはようやく繋がった。どうやら、そのときは交換手に忘れられてしまったようだ。
 ようやく「特殊公衆青ヶ島東」が出た。
「役場ですが、だれを呼びますか。」
「菅田と申しますが、村長さんをお願いします。」
 誰かがドタバタと廊下を歩く音がしたかと思うと、「村長さーん」という声が受話器から洩れてくる。
「少しお待ちください。今、有線放送電話で呼びましたから、村長がバイクでくるまで、ちょっと待って下さい…」
 待つこと10分、否、もう少し掛かったかもしれない。そして、ようやく10分ぐらい話しをすることができた。はっきりとは覚えていないが、このときの電話料金は5,000円を超えていた。
 昭和46年5月10日、青ヶ島へ渡って、青ヶ島の電話事情がようやく呑み込めた。
 戦前の校舎を利用した古ぼけた役場の庁舎の左側に納戸状の小さな建物が突き出ていて、そこに黒い電池式の電話機が置かれていた。テレビのドラマで観たことはあるが、実物を見たのは初めてだった。 
 この電池式というのは、電話機の右側に取っ手があるもので、それをグルグル回すとガリガリと電気が起きて、それが合図となって青ヶ島の場合だと八丈島の電話局へ繋がり、交換手に八丈島や東京の電話番号を告げると繋いでくれるのである。そして、掛け終わったあと電話機を置いて待っていると、しばらくして電話料金を教えてくれるのである。
 ちなみに、その頃の青ヶ島には、外部との電電公社の回線が4本あった。ひとつは青ヶ島村役場にある「特殊公衆青ヶ島東」で、もう一つは郵便局の「特殊公衆青ヶ島西」である。それに、もう1本は警察電話で、残りの1本は災害時の緊急用の空き回線となっていた。すなわち、事実上は、役場と郵便局にある特殊公衆電話が2本あるだけだったのだ。
 役場の電話は、役場内の村長の机とか、数名の机の上の電池式電話機と切り替えられるようになっていたが、もちろん、八丈支庁や、支庁内にある青ヶ島村分室や、東京都庁との業務連絡に使われた。さらに、学校の先生たちも、校用や私用の電話でやって来た。そして当時、公共土木工事のため東京から進出していた共同興業や、八丈島の樫若組とか沖山組などの人たちも利用した。もちろん、休戸(やすんど)や中原地区の住民も電話を掛けに来た。とくに、明日は必ず船が来るであろうことが確実という日には、一日中、誰かが電話の前にいた。
 そんなこともあって、青ヶ島から東京へ電話をするときには繋がりやすいが、逆の場合はなかなか思い通りにならなかったのである。しかし、郵便局の「西」は、役場の「東」に比べると、空いていることが多かった。そこで、東京からの急ぎの場合、「特殊公衆青ヶ島西」のほうへ電話を掛けてもらって、郵便局から役場の設置の有線放送電話で相手を呼び出してもらって、その人に郵便局まで走ってもらう、という方法もあった。
 ちなみに、当時の電話料金は、八丈島は大賀郷・三根は管内ということで3分間10円だったが、東京は3分240円(午後7時からは夜間料金で180円)だった。ただし、昭和46年当初はもう少し高かったような気もする。学校の教員の中には、1ヵ月の電話代が数万円という人もいたのである。
 今は青ヶ島でも携帯電話が普及し、ちょっとした集まりのときはマナーモードにしていないと、あちこちで着信メロディーが鳴り響く、ということである。
 (なお、次々号では「青ヶ島村役場の有線放送台での交換業務」を予定しております。)


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