目 次
第01話 くさかったはなし
第02話 紫陽花とカンジョシバ
第03話 船に乗り遅れた江戸前鮨
第04話 住所・氏名・生年月日、みんな間違っているよ!
第05話 深夜、島凧の為朝の目は光っていた!
第06話 青ヶ島は民話の宝庫です?
第07話 青ヶ島の特殊公衆電話の秘密
第08話 その日は、誰もが哭いたーー宮本日共議長を”除名”した男の壮絶な死ーー
第09話 青ヶ島村役場の有線放送台での交換業務の風景
第10話 飲み水は天からのもらいもの
第11話 東台所神社の神がぼくを呼ぶ
第12話 昭和40年代後半の青ヶ島村役場の業務と行政無線
第13話 子どもたちの小遣い稼ぎ(?)
第14話 セスナに乗って投票用紙がやって来る--選挙戦三話-
第15話 青ヶ島の哭女(なきめ)たち
第16話 青ヶ島の巫女さんたち
第17話 キキミミ(聞き耳)がよけどうじゃ
第18話 青ヶ島の〈浜見舞〉の饗宴――初めて島へ渡った日の匂いのこと
第19話 青ヶ島の「ジイ」と呼ばれた男たち
第20話 きびがわりきゃあのー
第21話に続く
第10話 飲み水は天からのもらいものーー天水タンクの想い出と乳濁色の霧の日々――
2003.06.01
 
 東京と水道局が発行している『水道ニュース』(平成15年 第1号)を見ると、その4面に「水滴くんの旅」というのがある。そこには「水道の水って、どこからやって来るのかな?」とある。もちろん。「その答えは“雨”」である。
 青ヶ島に簡易水道施設が完成したのは、今から約四半世紀前の昭和54年6月7日のことである。それまでは文字どおりの、“雨”頼みの天水生活だった。すなわち、わたしの第1次在島時代はまさに天からの贈り物を待つ日々だった。
当時、青ヶ島の民家の屋根はそのほとんどがトタン葺きで、降った雨が樋を伝わり一ヵ所の集水孔から塩ビのパイプを通って屋外のコンクリートの天水タンクに流れ込むようになっていた。もちろん、屋根(家)が大きければ、それだけたくさんの雨水を受けることができる。そして、それを効率よく貯め込むためには、タンクがなるべく大きくなければならない。屋根とタンクの大きさがその家の富を示すバロメターになっていたわけである。
その頃のわが家は、役場の左手前にあった元の港湾事務所(書類上はとっくに廃棄されたことになっていた?)だった。そこから1メートルほど離れて校庭に接するように2トンタンク(多分?)があり、タンクの下の部分には蛇口が二つ付いていた。休み時間にはときどき子どもが飲みに来るし、役場に来る住民も使うので、蛇口がきちんと閉まっていないときはあわてて閉めたものである。
最初の1年間は、風呂を持っていなかったこともあって、おそらく多くても月に1〜2トン程度の消費量だったと思う。しかし、昭和47年に長男が生まれたことや、その夏の終わりに風呂と洗濯機を買ったこともあって、たぶん3トンぐらいになったはずである。いずれにせよ、3週間まったく雨が降らないと、天水タンクは空っぽになってしまう。そういう時は、役場のユド(井戸の義。ユド<ヰド<イド)の水をバケツで汲み上げた。ちなみに、井戸といっても、ひじょうに大きな地下タンクのことである。学校のかなり大きな天水タンクへ消防ポンプで移したあとも、まだ充分に水は残っていた。ただし、バケツを底に上手に落として長いロープを引き上げるのは、そこそこの重労働と勘を要した。
 とうぜん、雨が降ると、「ずいぶん水が貯まろうじゃあ」と大喜びをする。青ヶ島は本土・東京と比べると、年間降雨量はかなり多い。それは台風がよく通るからである。ところが、ときどき、「てっつも、だめだらあ」とがっかりする人も出てくる。それというのも、天水タンクに水が貯まる前に樋が吹き飛ばされてしまうからだ。わたしも二度ほどそうした経験がある。そして、折角の梅雨なのに雨がほとんど降らないときもあった。
  青ヶ島では5月中旬になると、梅雨の兆候が現われる。海抜423メートルの大凸部(おおとんぶ)の上に霧が懸かる。それが日増しに厚みを帯びながら次第にオカベに降りてくる。いっぽう、海からも海霧が少しずつせり上がってくる。そして、沖縄や奄美地方が梅雨入りをする頃には、二つに霧がドッキングする。霧につつまれているというよりも、雲の中にいるという感じである。しかも、びゅうびゅう、その霧が吹きつけるのだ。そうなると、1メートル先の人も見えなくなる。ちなみに、東京が梅雨明け宣言しても、まだ大凸部に霧が残っているときもある。 大凸部から降りてきた乳濁色の霧を、初めて見たときはとてもロマンチックだと想った。しかし、一寸先も見えないくらい毎日毎日、霧々舞の日々が続くと憂鬱になる。「きめえがめえて、しにさうにならら」(気が滅入って滅入ってして、魂が抜けそうになってしまいそうです)という状態になる。しかも、霧ばかりで「てっつも水が貯まりんなか」ということもある。
 さらに、当時と今とでは住宅事情がまったく違うが、昔はアルミサッシにガラス窓の家なんてなかったので、家々では雨戸を否応なく固く閉ざすことになる。それでも、家の中を白い霧が通り抜けた。こうなると、箪笥(和洋いずれも)は一度開けると、もう締まらない。当時は茶箱が箪笥代わりだったのである。家の中は黴臭くなるし、24時間送電ではなかったので部屋の中は真っ暗という状態。ますます、「きめえがめえて、しにさうにならら」ということになってしまうのだ。そして、そういうときは、仕事にもならない。また、波が高いことも多く、船も来ないのだ。当然、布団も干せない。ぢっと我慢しているしかないのである。今から想うと、昭和46年、47年の梅雨の体験はひじょうに貴重な体験だったと想う。
思わず、天水タンクの話が梅雨の話になってしまったが、当時、大きな屋敷に行くと、鴨居のあたりに樋やパイプが走っているところがあった。増築したとき、樋をそのまま残して利用していたのである。また、コックバ(<kok場。台所の義。小笠原文化の影響)を天水タンクの隣に増築して、いちいち水を汲みに行かなくてもよいようにしている家もあった。さらに、ドラム缶や土かめを軒下の置いたり、樹木の下に置いたりして、いざというときの準備にしている家もあった。
しかし、簡易水道が開通すると、次第に天水タンクは消滅し、タンクの一部を壊して倉庫にしたり、車庫にした家もあったが、今はほとんど見当たらなくなってしまった。
もちろん、今も梅雨時になれば、霧々舞の状態になる。そういうとき、間違って窓ガラスを閉め忘れたりすると、大変である。言わずもがなである。




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