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第4話 住所・氏名・生年月日、みんな間違っているよ! |
2002.12.01
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昭和48年の秋のことだった。島生まれの女性が役場へやってきた。
「謙アニィはあろうか」
「ないよ。ヒョウラ(兵糧=昼食の義)噛みに行って、まだ戻って来んじゃらあって」と、たぶん正人さんが応えた。
「そごんか。ほいじゃあ、喜久一アニィでもよっけんて、書類を作ってたもうれ」
そうこうしているうちに、謙次さんが戻ってきた。
「謙アニィー、あが書きほう、なっけどうて、あが代わりに書いてたもうれ」
謙次さんはその申請書を見て、
「住所・氏名・生年月日だけは自分で書きんのうとダメだら…」と言いながら、書類を彼女に戻した。仕方なく、彼女はボールペンで、その三つを書き込んで、謙次さんに渡した。
「ダメだらー。おめぇ、大正の生まれどうじゃあ、昭和じゃあなっけよ」
「ワーッ、ふじゃけナー、あが昭和元年の生まれどしどうじゃあ。喜久一アニィーや謙アニィーと違って、大正組の仲間じゃあなっきゃあ。」
謙次さんは、すこしあらたまった口調で言う。
「大正天皇が崩御されたのは大正15年12月25日(翌日、昭和改元)のことだったけど、A子さんが生まれたのはその数ヵ月前のことですよ。だから、昭和元年じゃあなくて、大正15年です、昭和というと、若く見えると思って…」
彼女が佐々木姓だったか、廣江姓だったか、いまはもう忘れてしまったが、彼女は旧姓と現姓を取り違えていたのである。そして、これにたいする彼女の応えは、そのとき周りでふたりの話を聞いていた人たちをうならせるものだった。謙次さんも喜久一さんも、ぼくも、彼女の主張に頷いたのである。
「あが初めて、ま(今)の名字を知ろうて…。だいどう、へんどうじゃ。変どう話どうじゃ。あが生まれてきたときは□□姓で、あが父ちゃんも母ちゃんも□□だらあって、それに、あがオヤコ(この場合、兄弟姉妹)もめんな□□姓どうじゃ。」
ちなみに、青ヶ島の人が昭和改元を知ったのは、大正天皇の崩御からちょうど1年後の昭和2年の暮のことだった。青ヶ島の荒磯で遭難した土佐船を、島の人たちが総出で救助したさい、漁船員から聞いて、大正から昭和へ変わったことを、ようやく知ったのである。つまり、青ヶ島では、大正時代は16年(書類上は大正17年もあった?)まであったわけである。
いっぽう、青ヶ島の人びとは、名字ではなく、原則的に名前で呼び合う。青ヶ島の有力な姓は廣江、菊池、佐々木、奥山の4姓だが、同姓が多くて紛らわしいので、島民どうしが姓で呼び合うことはまず絶対にありえないのである。また、東京から移り住んだ人でも、島で子どもが生まれれば、その子はやがて「姓」を希薄にしていく。そのため、島民は「名字」に執着しなくなる。
このA子さんの場合はちょっと突出した例だったが、昔は学校の先生たちが「誰某ちゃんの名字は何?」と、役場に確認しにきたこともある。自分の名字を忘れていた人がいても、おかしくなかったのである。そういう中での、やり取りだった。
さらに、厳密にいえば、彼女は住所も間違っていた。青ヶ島はどこもかしこも“無番地”だから、“東京都八丈島青ヶ島村(昭和63年10月1日から東京都青ヶ島村へ村名表示統一)”のあとは、正式には“無番地”と書かなければならないのである。もちろん、島の人も役場職員も、ふつうは“無番地”までは記さないのである。ちなみに、わたしはかつて、青ヶ島へ現金書留で香典を送ろうとしたが、大田区内の某特定郵便局では「村のあとに住所が書かれていない」といって受け付けてくれなかった。「青ヶ島の人口は200名前後だし、島じゅうのどこも“無番地”だから、だれも無番地とは記さないのだ」と主張したが、「それなら無番地と書きなさい」と小官僚ぶりを発揮したのである。
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