目 次
第01話 くさかったはなし
第02話 紫陽花とカンジョシバ
第03話 船に乗り遅れた江戸前鮨
第04話 住所・氏名・生年月日、みんな間違っているよ!
第05話 深夜、島凧の為朝の目は光っていた!
第06話 青ヶ島は民話の宝庫です?
第07話 青ヶ島の特殊公衆電話の秘密
第08話 その日は、誰もが哭いたーー宮本日共議長を”除名”した男の壮絶な死ーー
第09話 青ヶ島村役場の有線放送台での交換業務の風景
第10話 飲み水は天からのもらいもの
第11話 東台所神社の神がぼくを呼ぶ
第12話 昭和40年代後半の青ヶ島村役場の業務と行政無線
第13話 子どもたちの小遣い稼ぎ(?)
第14話 セスナに乗って投票用紙がやって来る--選挙戦三話-
第15話 青ヶ島の哭女(なきめ)たち
第16話 青ヶ島の巫女さんたち
第17話 キキミミ(聞き耳)がよけどうじゃ
第18話 青ヶ島の〈浜見舞〉の饗宴――初めて島へ渡った日の匂いのこと
第19話 青ヶ島の「ジイ」と呼ばれた男たち
第20話 きびがわりきゃあのー
第21話に続く
第8話 その日は、誰もが哭いた ――宮本日共議長を“除名”した男の壮絶な死――
2003.04.01
 
 その日は、誰もが哭いた。青ヶ島中が悲しみに包まれた。男も女も、老いも若きも、みんなが泣いた。昭和57年4月初めのことだった。
 その年の暮れ、実にひさびさに発行された『アオガシマニュース』第31号(昭和52年7月から昭和57年12月まで、当時の教育長・松原和史さんによって刊行されたタイプ刷りわら半紙の青ヶ島村広報紙)は、「昭和五十七年をふりかえって」の〈3月〉の項で次のように記している。
「〈3月〉三宝港で事故―伴夫さん死去  都知事来島を明日にひかえ、準備の最終点検を行なっていた31日、悲しい事故の知らせがはいりました。
31日午後1時頃三宝港の荷揚げ場から上の倉庫へ向う急傾斜な坂に、KTさん(36歳)が二女Sちゃん(3歳)をのせ停車させておいたところ、突然車が走り出し、海中へ落ちました。驚いたTさんとそばで仕事を始めようとしていたTさんの弟菊池伴夫さん(34歳)が海へ飛び込み、車のドアガラスを割ってSちゃんを助け出し、TさんとSちゃんはどうにか突堤に上がりましたが、海はシケ模様で伴夫さんはそのまま波にのまれ、行方不明になりました。
村では事故の知らせを受け、直ちに消防団による救出活動を始めましたが、海上は台風並みの大シケとなり、捜索は困難を極めました。
海からの捜索の為海上保安庁のヘリを要請し災害対策本部を設置する一方、都知事来島の受け入れはできないと決定した村長は、自ら都庁へ都知事来島断念の連絡をし、捜索活動の指示に当たりました。
夜になっても伴夫さんの消息がつかめず、不安はつのる一方でしたが、消防団は捜索活動をゆるめず、翌4月1日朝6時半頃、黒根ヶ浦の浜に伴夫さんが遺体で打ちあげられているのを発見しました。(5行省略)
幸い助けられたSちゃんはかすり傷程度ですみましたが、青年団活動や産業振興等で活躍していた伴夫さんを失った痛手は大きく、Sちゃんのあどけない笑顔がなお一層、人々のなみだをさそいました。」
その伴夫さんが、東京・池上のわが家をひょこり訪ねてくれたのは、昭和50年の初夏のことだった。何となく暗い表情だったので「どうかしたの?」と聞くと、「査問委員会に呼ばれているんだ。明日、党本部へ行くのだけど、ひょっとしたら除名されるかも…」という話だった。「ぼくと付き合っているので“除名”されるんじゃあないの?」と冗談を言うと、「それはないよ」と詳しい話をしてくれた。
昭和50年6月、青ヶ島村では村長選挙があったが、現職の奥山治さんに対抗してその年の3月まで青ヶ島小中学校の教頭だった山田常道さんが立候補した。そのとき青ヶ島青年団のほとんどは山田氏を支持したのである。ところが、それが共産党の逆鱗にふれた。それというのも、当時の奥山治村長は、国政・都政の選挙のたびに共産党の候補者のため、選挙公報にいつも名前を連ねていたからである。全国最小自治体とはいえ首長が共産党の熱心な支持者であったということは、共産党にとっては大きな意味を持っていたにちがいない。しかも、青ヶ島青年団には日本共産党所属の村会議員が2名もいたのである。
「青ヶ島青年団は政治組織でも、民青や、ましてや共産党の下部組織でもないでしょ。それに、青ヶ島青年団のメンバーは、教員を除くと、みんな山田先生の教え子でしょ。山田先生が牛を飼ったり、船が日曜日に来るときには艀作業までしたり、学校ではまるで用務員のようなことまでやって島のために仕事をしてきた。だから、青年団員のほとんどが山田先生を支持する。もちろん、団員のすべてが山田支持派ではない。だいいち、青年団は政治組織ではないから、団としては誰も支持しているわけじゃあないんです。もちろん、ぼくじしんは山田先生を支持している。それなのに、日本共産党は、青ヶ島の党員の声も聞かないで、いきなり奥山治村長を支持しろ、と言ってきた。それはできない、と答えたら、こういうことになった。」
 伴夫さんのボルテージは次第に高まっていた。ビールの勢いもあったかもしれないが、最後に彼はこう言い切った。「日本共産党がそんな理由で、ぼくのことを除名するなら、青ヶ島共産党は宮本顕治日共議長を除名する」。
 それから数日後、竹芝から八丈行きの船に乗るという数時間前、伴夫さんはわが家に顔を出した。「拍子抜けだったよ、菅田さん、何か裏で動かなかった? 覚悟して党へ顔だしたら、ご苦労さまっていわれて、まあ、お茶でも飲んでいってくださいだって…。世間話をした後、これからも頑張ってください、と言われてすぐ釈放されちゃった。」
 じつは、伴夫さんの話を聞いたあと、わたしは、共産党員か、あるいは有力な日共シンパで党幹部と繋がりがあるとおぼしき4〜5名の人に電話をした。そのうちの2〜3人が話をほぼ正確に伝えてくれたらしい。それで、査問の理由がなくなったらしい。ただし、その6年後の昭和56年7月、伴夫さんは共産党からしっぺ返しを受けることになる。
 ところで、伴夫さんが25歳で村会議員になったのは、昭和48年8月のことだった。その年の2月に美濃部都知事の初来島があり、青ヶ島青年団は独自に要望書を提出した。そして、そのとき、伴夫さんはまだ24歳だったが、立候補を決意したらしい。ちょうど、そのころ八丈島の共産党町議が都議候補を連れて来島し、伴夫さんの家(当時は都公認の民宿はなかったが、5軒の〈民宿〉格の家があった)に宿泊した。そのとき、立候補するなら共産党から出てほしい、との話が伴夫さんにあったらしい。その後、彼のお父さんが村会議員を引退することになり、彼の兄さんのTさんがその議席を受け継いで立候補することになった。さらに、のちに村長になる佐々木宏さんも立候補を表明し、20代の3人が議席(定数6)を目指すことになった。
 昭和48年8月1日、村議選が告示され、翌日の締め切りりまでに7人が立候補の届出をした。しかし、その時点で青年3人は七島青年大会出席の帰路、八丈島―青ヶ島間のシケのため、八丈島で船待ちをしており、立候補は家族が代理で行なった。さらに、青ヶ島にも八丈島にも教員数名が出・帰島の船待ちをしており、病人もいたことから行政ヘリを要請した。そして、3人が無事帰島したが、伴夫さんとTさんから「無所属」から「共産党」への「所属党派変更届」が提出された。19年ぶりの投票となった8月8日の村議会選挙の結果、Tさんが18.409票でトップ当選し、伴夫さんが15.340票で4位、宏さんも12票で6位当選をした。
 昭和52年8月の村議選では無投票となり立候補者は、いずれも再選(昭和50年6月の補選で荒井清さんも無投票当選)された。6議席のうち、4議席が32歳以下だった。しかし、昭和56年8月のとき、伴夫さんは立候補を認められなかった。そのころ、共産党では、たしか東京の区議会議員が“覗き見”で逮捕されるなど、地方議会議員によるスキャンダルが引き続いて党勢が落ち込んでいた。そうした中で、青ヶ島村で共産党の2議席確保は困難だ、と判断されて、50年6月の村長選の〈後遺症〉もあって、伴夫さんは立候補を辞退させられたのである。ちなみに、この52年8月4日の村議選は7人が立候補している。
 村議を辞めたあと、昭和54年6月21日に村長に無投票当選した山田常道氏(50年のときは僅差で落選)の要請で教育委員に就任する一方、彼の家族で運営していた建設会社に“辞表”を提出して、自由な立場から産業振興に取り組みながら、絵を描いたり本を読んだりして、何かしようと模索しているところだった。
 じつは、彼が事故死する前々日、わたしは彼の声を聞こうと電話をしている。そのとき青ヶ島有放の交換台には本多順子さんがいて、彼女は伴夫さんがいそうな場所5ヵ所ぐらいに電話を回してくれたが、結局、声が聞けなかったのである。昭和57年3月31日の夕方、今日こそ声を聞こうと思っていると、NHKのテレビが青ヶ島で鈴木都知事の訪島を前に、島の青年が港に落ちて行方不明となり、知事の訪島が中止になった、というニュースを伝えていた。
いま、あのときから、ちょうど21年が経つ。あらためて、今は亡き菊池伴夫さんの御霊の幸の多からむことを、ここで祈る。今、これを書いていて、彼のことを想うと涙が浮かんでくる。なお、Tさんは昭和48年以来、連続8期当選をしている(ただし、平成5年6月頃、Tさんは共産党を脱党している)。
ちなみに、故・奥山治氏の名誉のために付け加えるが、氏が共産党を支持したのは、村長として上京、陳情に出かけても、当時は共産党しかまともに相手にしてくれなかったからである。そして、当時、共産党は美濃部都政の純粋与党として、それなりの力を持っていたからである。治村長じしんは、玄米正食の求道者であるとともに、アイディア豊富な、そして、宗教性をもった思想家タイプの人であった。


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