目 次
01 生国魂(いくたま)
02 伊豆諸島という呼称の変更の問題について
03 カクレ青ヶ島ファンだった高円宮憲仁親王殿下の薨去を、こころから哀悼いたします
04 伊豆七島と伊豆諸島
05 《特定外周領域》の淵源とその系譜 ――ひとつの試論のための荒削りの素描――
06 ペリーの浦賀来航と沖縄、小笠原諸島、そして林子平の関係
07 ジル・ドゥルーズの《無人島》を読んでの心覚え
08 御蔵島という島名の中のクラという語の意味
09 尖閣、竹島、北方四島の問題――再び《特定外周領域》について――
10 伊豆七島は静岡県だったんですよ ー ある歴史学者はかく語りき ー
11 青ヶ島で国民年金の担当をしていた頃
12 宗像の津加計志神社と織幡神社を参拝して
13 国会議員および島を愛する全ての人へのお願い
14 公職選挙法施行令(昭和25年5月1日施行)第147条について
15 イザヤ書における「島々」の意味―世界史の交差点としての島々―
16 旧暦の霜月の寒さでタマフリの必要性を感じたこと
17 幻の鬼ヶ島(神奈川県川崎市中原区市ノ坪)を探しに行く
18 大田区の旧・鵜ノ木村の飛地・沖島(奥島)について
19 聖性と賤性が交錯するシマとしての窟
20 玉川弁財天と要島 ― 江戸時代の「水母なす漂へる島」を修理固成した要石の役割 ―
21に続く
20 玉川弁財天と要島
― 江戸時代の「水母なす漂へる島」を修理固成した要石の役割 ―
2006.04.23
 
 羽田空港の手前の、多摩川河口の遊漁船の船着場に面した一角の、大田区羽田6丁目13番8号に「水神社」が鎮座している。水波乃メ(口偏に羊)(みづはのめ)命を祭神とする小さな神社である。その境内には水神社の社殿よりは大きいものの、少々うらぶれた感じのする玉川弁財天の社がある。その玉川弁財天の由緒を示した、今はもう文字がほとんど消えかかっている掲示板によれば、同弁天は厳島(安芸の宮島)、琵琶湖の竹生島、江ノ島と並ぶ日本四大弁財天の一つだった、というのだから驚く。その記述が正しければ、この《うらぶれやう》の落差の現実を直視しなければならない。
多摩川河口の遊漁船の船着場
右側の堤防下に玉川弁財天が鎮座


水神社
左側が多摩川の土手。右側が玉川弁財天

玉川弁財天
  
 たしかに、この玉川弁財天は、江戸時代には人気の霊的スポットであったらしい。斎藤幸雄編『江戸名所図会』(天保五〜七年1834〜36刊行)には、その後に流行神(はやりがみ)となった穴守稲荷は当然まだ載っていないものの、玉川弁財天は羽田弁財天社(あるいは要島弁財天社とも称した)の名で、絵入りで細やかに描かれている。ちなみに、現在でも同社のすぐ近くには、蝦取川に架かる「弁天橋」がある。この弁天橋は、高速道路が通じる以前は、羽田空港へ向かうためには必ず渡らなければならなかった橋であり、昭和42年(1967)10月8日、佐藤首相訪米反対の羽田闘争の際、京大文学部1年生の中核派・山崎博昭(18歳)君が機動隊の警備車に轢かれて死亡した場所でもある。 撤去作業中の古い弁天橋
(ここで山崎博昭氏が亡くなった)

新しい弁天橋
  


  
 『江戸名所図会』によれば、要島弁財天社は「羽田村の南の洲崎」にあって、「この羽田の浦を扇が浜と号(なづ)くる故、この地を要島とよべり」と注記されている。厳密にいえば、羽田村の羽田猟師町の洲崎ということになるが、この場合の「洲」はのちの羽田空港の用地の基盤となる「鈴木新田」のことらしく、すでに新田開発も始まっていたようだ。しかし、その実態は、絵図にも見られるように、洲の崎(先)の海(羽田の浦)の「扇が浜」(現在の多摩川河口の遊漁船の船着場の辺り?)と陸続きになったり離れたりする島であったらしい。しかし、要島という名が示すように、この「島」が洲の面積の成長のための「要」の役割をはたしたことが想像できる。
 まず、玉川弁財天の由緒だが、『江戸名所図会』によれば、その本尊は弘法大師の作といわれており、有名な江島本宮巌窟弁財天とは同体で、日向延岡城主有馬康純の同母弟・純政の江戸屋敷に伝わっていたものという。それを海誉(かいよ)法印が霊夢に感じて、宝永8年(1711)4月、この地に遷したものだという。いっぽう、往古、深夜、海中に光る物があり、村の漁師が怪しんで網を打つと、宝珠が得られたが、それは多摩川上流の日原山(奥多摩町と秩父市の境)から流れてきたもので、それで社を建てて祀ったのが始まりとも伝えられている。しかし、社殿が風や波にとられることもしばしばで、海誉法印が「法華経全部の文字を一字一石に書写し、この海底に沈めて島を築」いたところ「その感応やありけん、それより巳降(このかた)、青松鬱蒼(せいしょううつさう)として繁茂し、庭上苔むし、つひに風波の難を免るゝ事を得たり」とある。
 すなわち、『江戸名所図会』を読むと、多摩川の上流から運ばれてきた砂利や土砂が堆積して、海中に洲を形成していく過程が目に浮かんでくる。古事記神話的にいえば、海誉法印が海中に沈めた石は、「浮かべる脂の如くして水母なす漂へる」洲を修理固成(すりがため)するためのものだった。『図会』の伝説は仏教風になっているが、神道風に言い換えれば、海誉法印の<沈石>は、海の中に置かれた磐座(イハクラ)であり、海と陸との間の磐境(イハサカ)としての<鎮石>であった。つまり、鹿島神宮の有名な「要石(かなめいし)」と同様の存在ということができる。
 この鹿島神宮の「要石」は、地震を引き起す大鯰の頭を抑えつけているといわれているが、現地へ出掛けて注意深く見れば、鹿島灘の潮騒が聴こえる松林に囲まれた砂地の中にある。すなわち、この「要石」が海と陸との境界を示す《イハサカ》としての《イハクラ》であったことが想像できるのである。玉川弁財天の鎮座地の「要島」の場合は、シマ自体がこうしたイハサカ=イハクラだったことになる。
 いずれにせよ、水母なす漂へる洲の修理固成のためのイハサカ・イハクラによって、「要石」は「要島」へと成長し、さらに、その周りに土砂を引き寄せて、陸とつながり、やがて陸地の中へと組み込まれてしまう。すなわち、要島という存在は、川とも海とも区別がつかない汽水域に投ぜられた石(イハ)がその周辺に砂洲を引き寄せて成長し、文字どおりの「要の島」となったときの状態を示している。水母なす漂える「陸地」が動かないようにするための「要石」は、それが文字どおりの島へ成長していくことで信仰の対象としての磐境・磐座となる。その島になった時点での弁財天の勧請は、むしろ必然的なものである。玉川弁財天が流行神になったのも頷ける。
 実際、大田南畝(1749〜1823)は多摩川流域の点検吟味(文化5年12月〜6年4月:1808〜09)のさい、何度も要島弁財天社を詣でて、白銀一つぶを捧げている。そのときの大田南畝の『調布日記』によれば、この要島の「常燈籠」の近くに「宇賀神の小祠あり。御穴宇賀神といふ」があり、おそらく、これがのちに穴守稲荷へと発展したものではないかと思われる。つまり、明治維新を契機に流行神が入れ替わってしまったのである。
 自称とはいえ、要島の弁財天が、厳島、竹生島、江ノ島と並び称されたのに、その後、零落してしまったのには、おそらく、明治維新の神仏分離も影響している。『江戸名所図会』や、その種本の大田南畝の『調布日記』によれば、要島弁財天社の別当は金生山龍王密院である。ところが、冒頭で紹介した玉川弁財天の掲示は、羽田2-26-11にある真言宗智山派の医王山龍王院が記したものである。神仏分離でおそらく山号まで変わってしまったのであろう。そして、玉川弁財天も後ろ盾をなくして、次第に衰退してしまったのだと思われる。ちなみに、明治になって流行神の位置を獲得したのが穴守稲荷神社である。
 この穴守稲荷は現在は羽田5−2−7に鎮座しているが、戦前までは旧・羽田空港の駐車場のところにあった。かつての駐車場にあった大きな鳥居は当時の遺物で、現在は蝦取川の弁天橋の近くに移転している。『大田区の神社』(昭和46年)によれば、穴守稲荷の由緒は「文化年間元羽田村名主鈴木弥五右衛門が要島の堤防に新田開発の守護神として祀りたるに始まる、明治十八年公衆参拝の許可を得て京浜間の流行祠となる。昭和二十年九月飛行場拡張のため羽田神社に仮遷宮。昭和二十三年二月現在の地に遷宮。」とある。つまり、大田南畝が指摘するように、最初は玉川弁財天の境内に鎮座していたわけである。ちなみに、江戸末期の鈴木新田にはその後、羽田穴守町(穴守稲荷の門前町)・羽田鈴木町・羽田江戸見町と羽田御台場・鈴木御台場・猟師町御台場がつくられ、終戦直後、これらの全てが占領軍に接収され、住民も強制退去させられて飛行場(旧・羽田空港)が建設された。

 なお、ここで羽田のハネの語源について考えておこう。ハは端(はし)・葉・刃先など先端を意味する《ハ》、ネはナ行のナヰ(地震)・ヌマ(沼)・ネ(根)・ノ(野)など大地(土地)を意味していると思われる。つまり、川の上流から土砂が運ばれることによって、海へ向かって形成された土地が《ハ》《ネ》なのだ。その意味では、多摩川を挟んで川崎市側が“橘樹郡”タチバナであるのは、まさに対称的な地名である。また、粘土のことをハニ(埴)・ハニツチ(埴土)というが、このハネと同源である。もちろん、埴輪のハニはこの粘土のことであり、埴安姫命という女神はその守護神ということになる。つまり、羽田という地名は、多摩川が運んできた土砂が形成した土地《ハネ》に作られた田《タ》ということになる。
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