目 次
01 生国魂(いくたま)
02 伊豆諸島という呼称の変更の問題について
03 カクレ青ヶ島ファンだった高円宮憲仁親王殿下の薨去を、こころから哀悼いたします
04 伊豆七島と伊豆諸島
05 《特定外周領域》の淵源とその系譜 ――ひとつの試論のための荒削りの素描――
06 ペリーの浦賀来航と沖縄、小笠原諸島、そして林子平の関係
07 ジル・ドゥルーズの《無人島》を読んでの心覚え
08 御蔵島という島名の中のクラという語の意味
09 尖閣、竹島、北方四島の問題――再び《特定外周領域》について――
10 伊豆七島は静岡県だったんですよ ー ある歴史学者はかく語りき ー
11 青ヶ島で国民年金の担当をしていた頃
12 宗像の津加計志神社と織幡神社を参拝して
13 国会議員および島を愛する全ての人へのお願い
14 公職選挙法施行令(昭和25年5月1日施行)第147条について
15 イザヤ書における「島々」の意味―世界史の交差点としての島々―
16 旧暦の霜月の寒さでタマフリの必要性を感じたこと
17 幻の鬼ヶ島(神奈川県川崎市中原区市ノ坪)を探しに行く
18 大田区の旧・鵜ノ木村の飛地・沖島(奥島)について
19 聖性と賤性が交錯するシマとしての窟
20 玉川弁財天と要島 ― 江戸時代の「水母なす漂へる島」を修理固成した要石の役割 ―
21に続く
10 伊豆七島は静岡県だったんですよ―ある歴史学者はかく語りき―
2004.06.15
 
 ちょうど7年前の平成9年6月7日のことだった。友人のO氏が江東区総合区民センターで“離島問題”について話しをするというので聴きに出かけた。歴史教育者協議会が主催する“離島問題を考える集い”という会だった。
 この主催団体はその名のとおり、歴史学者と中・高の歴史の教員で構成される学術団体で、世間ではいわゆる日共系組織に分類されている。その末端組織の主催だったが、会場へ行って親団体トップの歴史学者の松島栄一氏(平成14年12月12日、85歳で逝去)が挨拶をすることを知り、かなり期待した。なにしろ、松島氏はわたしが高校生の頃の日本史の教科書の執筆者代表だったのである。高名な歴史学者の顔をこんなところで見られる…と思ったのである。
 松島氏は開口一番「みなさんは、沼島(ぬしま)といっても、ご存知ないかと思いますが、わたしはその沼島に、いまでも本籍を置いているのです」と仰られた。〈沼島〉と聞いて、わたしはとても嬉しくなった。ただ、それだけで、好感を持った。まさに、“離島問題を考えるつどい”の場で挨拶するにふさわしい方である…と。
 ちなみに、この沼島は地図をみると、兵庫県・淡路島の南端の、その名も南淡町に属する面積2.63平方キロ、人口669(平成12年国調)の島である。そして、『古事記』神話のオノゴロ島に比定されている浪漫あふれる島である。すなわち、イザナギとイザナミの男女二神が高天原から〈天(あめ)の沼矛(ぬぼこ)〉を下ろして水母(くらげ)なす漂へる海を掻きまわしたとき、その矛の先端から潮が滴り落ちて積もって形成されたのが、このオノゴロ島である。ギ・ミの二神は、高天原からこのオノゴロ島に降り立って、島々と神々を生み出すわけである。
 いうならば、沼島は〈島のはじめ〉の島なのである。離島の原点ともいうべき島なのである。わたしは、松島氏が沼島の出身というだけで、羨望にも似た好感をア・プリオリに抱いたのである。
 ところが、その期待感は間もなく裏切られた。松島氏は「みなさんはご存知ないかもしれませんが、伊豆七島はもともと静岡県だったんですよ」と、ある種の威厳を持って仰るのである。これを聞いて、わたしのアタマの中は真っ白になった。
 わたしは、本HPでもしばしば触れているが、〈伊豆七島〉という語は、式根島、八丈小島、青ヶ島に対する政治的、行政的な差別用語だと思っている。地理学的概念としても、歴史的に限定されないかぎり、誤った概念だと考えている。その〈伊豆七島〉なる用語を、松島氏はその後も、何度も連発するのである。
 そこで、わたしは主催者側の人に、伊豆七島という語の持つ差別性についての簡単なメモを書いて手渡した。あとで松島氏に取り消してもらいたいと思ったのである。この問題の中に、まさに“離島問題を考えるつどい”が集約的にあらわれている、と考えたからである。
 しかし、松島氏はなおも「伊豆七島はもともと静岡県だった」と主張した。おそらく、松島氏は、天皇制が伊豆七島を静岡県から奪い取ったということを、強調したかったのであろう。だが、松島氏いうところの〈伊豆七島〉、すなわち〈伊豆諸島〉は、もともと「静岡県」だったわけではないのである。
 本HPでは何度も触れているが、伊豆諸島が静岡県に所属していたのは明治9年から11年1月1日までのことである。すなわち、僅か2年間のことなのである。その前は、相模府、韮山県、足柄県(もちろん、明治維新以降の区域。ただし、その地理的空間にはかなりの隙間があった)に所属していた。明治11年元旦をもって、伊豆諸島はたしかに静岡県から東京府へ編入されたが、歴史科学的な厳密性を問えば、この場合の東京府も静岡県も、府県制(ずっと後の都道府県制)が発足する以前の府県である。したがって、静岡県が伊豆諸島を奪われたわけではないのである。
 ところで、松島氏は「伊豆七島」について、最後のトドメをさした。曰く「みなさんはご存知ないかもしれませんが、戦前、伊豆七島は京橋区の中にあったのですよ」―。もう、これには唖然とした。民主的で偉大な歴史科学者の松島栄一氏の歴史認識がじつは、そう大したものでないことは“伊豆七島”という語によって露呈されたが、この発言にはびくっりした。松島氏が東京市の京橋区役所を訪ねたのがいつかは知らないが、その時点では〈伊豆七島〉のうち大島、三宅島、八丈島の村々は「島嶼町村制」を脱却して「普通町村制」も敷かれていたはずである。もしかすると、京橋区役所の中に「伊豆七島」の出先機関が置かれていたのかもしれないが、東京市の区(この場合の区は、横浜市や川崎市などの区と同じ)の下に、戦前とはいえ、地方自治体が入るわけがないからである。
 松島氏が挨拶を終えたあと、わたしは主催者側に、これらのことを含めて、抗議の意思を伝えるとともに、松島氏にその旨、すぐ伝えてくれるよう依頼した。そして、すぐ松島氏を追いかけたのだが、はや、エレヴェーターで降りてしまった後だった。主催者側は、そういう細かなことは専門家でないとわからないから,以後、いろいろ教えてほしいと言ってくれたが、どうやら、わたしは彼らにとって、民主主義に敵対する反動分子と思われてしまったようである。
 いずれにせよ、「伊豆七島はもともと静岡県だったのですよ」という言い方が正しいとすれば、「沼島はもともと徳島県だったんですよ」という言い方をしなければならないだろう。そして、じつは、ここにも、明治維新以降の歴史と、離島問題の本質がかくれているのである。いま思うと、あのとき、もっとしつこく松島氏を追いかけて話をしておくべきだったと悔やまれる。そして、末尾ながら、島々と神々の故郷の沼島ゆかりの松島氏の御魂の幸を祈りたい。
 
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