目 次
01 生国魂(いくたま)
02 伊豆諸島という呼称の変更の問題について
03 カクレ青ヶ島ファンだった高円宮憲仁親王殿下の薨去を、こころから哀悼いたします
04 伊豆七島と伊豆諸島
05 《特定外周領域》の淵源とその系譜 ――ひとつの試論のための荒削りの素描――
06 ペリーの浦賀来航と沖縄、小笠原諸島、そして林子平の関係
07 ジル・ドゥルーズの《無人島》を読んでの心覚え
08 御蔵島という島名の中のクラという語の意味
09 尖閣、竹島、北方四島の問題――再び《特定外周領域》について――
10 伊豆七島は静岡県だったんですよ ー ある歴史学者はかく語りき ー
11 青ヶ島で国民年金の担当をしていた頃
12 宗像の津加計志神社と織幡神社を参拝して
13 国会議員および島を愛する全ての人へのお願い
14 公職選挙法施行令(昭和25年5月1日施行)第147条について
15 イザヤ書における「島々」の意味―世界史の交差点としての島々―
16 旧暦の霜月の寒さでタマフリの必要性を感じたこと
17 幻の鬼ヶ島(神奈川県川崎市中原区市ノ坪)を探しに行く
18 大田区の旧・鵜ノ木村の飛地・沖島(奥島)について
19 聖性と賤性が交錯するシマとしての窟
20 玉川弁財天と要島 ― 江戸時代の「水母なす漂へる島」を修理固成した要石の役割 ―
21に続く
12 宗像の津加計志神社と織幡神社を参拝して
2004.11.15
 
 11月2日午後、大島へ渡るため東郷駅から神湊(こうのみなと)行きのバスに乗った。渡船場に着く少し前、神社とも寺院とも見えるようなものあり、港に着いてから一時間の余裕があったので、そこまで引き返してみた。停留所ふたつ分の距離があった。
 その施設は、どうやら祖霊社と神道墓のようであった。その裏手に神社があったのだが、わたし自身はその施設の手前の道を右に曲がったところに鳥居が見えたので、先に神社のほうへ出かけたのである。それが逆だったら、隣接しているのに、神社へは辿り着けなかったかも知れない。

 その神社は宗像大社の境外摂社の津加計志神社(福岡県宗像市神湊950=旧・玄海町)。あとでやっとのことで調べた祭神は、和爾氏の祖神の阿田賀田須命。それよりも、わたしは社号の津加計志を見て、思わず喜んでしまった。
 ツカケシのツは、もちろんミナト(港)とか船泊りを意味する「津」である。シは強調の助詞(接尾語としても用いられる)である。このばあい、カケがややむつかしい。
 カケの付く地名には広島県の加計町や、奄美の加計呂麻島などがある。加計呂麻島のカケは加具土(かぐつち)・香香背男(かがせを)・香具山(かぐやま)・かぐや姫などのカガ・カグとおなじく「輝く」や「影」と語源が同じ。ちなみに、カケロマの呂はおそらくツングース系の格助詞で、マはもちろん「間」の義であろうか。
 しかし、ツカケシの場合のカケは、「光」系のカケではなく、「引っ掛ける」のカケのようである。この場合の「掛け」の原義は「しっかりと固定させる」である。つまり、ツカケシ(津加計志)とは、「津をしっかりと固定させる」という意味になる。いいかえれば、港の機能の充実化・永遠化を寿いでいるわけである。
 
 実際、津加計志の神が鎮座されている小山の上からは、大島が間近に見える。まさに、同社は、大島(宗像大社中津宮)・沖ノ島(同・沖津宮)をひかえた「神の湊」としての神湊の守護神なのである。ちなみに、岩波文庫の『日本書紀(一)』によれば、「神湊の東の海辺」に辺津宮があった可能性が指摘されており、「津加計志」という社号とその鎮座地から考えると、ここも有力な候補地だと考えることができよう。
 なお、この津加計志神社と神湊との間には、三つのエビス祠(表記は蛭子・恵比寿・夷と3つとも違っていた)や、伊能忠敬宿泊跡の碑、山頭火の句碑のある呑海山隣船禅寺など貴重な文化遺産もあって、たった40分間だったが、とても貴重な時間だった。
11月4日正午、沖津宮参拝を終えた12名は、帰路は海上タクシー宝栄丸で直接、神湊へ着いた。そこで女性2名と合流したあと解散し、わたしを含めた9名が宗像市鐘崎字岬224(旧・玄海町)に鎮座する織幡(おりはた)神社へ向った。
 
 織幡神社は「宗像神社」と同じく『延喜式』神名帳の「筑前国宗像郡」の式内大社で、宗像大社(旧・官幣大社)の境外摂社。旧社格は県社。主祭神は武内宿禰・住吉大神・志賀大神で、ほかに天照皇大神・宗像大神・香椎大神・八幡大神・壱岐真根子臣を配祀する。つまり、八幡信仰・住吉信仰・綿津見信仰・宗像信仰がドッキングしているのである。
 社殿は鐘崎の港の先端部の岬にある佐屋形山という丘の上にあるが、その神奈備の小山に登ると木々の隙間から右側に響灘が、左側に玄界灘が望める。つまり、織幡神社は玄界灘と響灘(瀬戸内海および国東半島方面へ通じる)を分けるサカ(坂・境)の神だったわけである。事実、神社の鳥居をくぐると、参道のすぐ左側に鐘崎の地名の起こりとなった大きな岩が置かれている。

 鐘崎の沖には大きな鐘が沈んでいるという、いわゆる〈沈鐘伝説〉があった。そして、宗像の海人(あま)によって、実際、鐘の形をした何かがある、と古くからいわれてきた。大正時代、山本菊次郎という人が巨費を投じて、伝説のそれを引き上げたのがこの鐘に似た岩だったわけである。
 おそらく、この岩は、玄界灘と響灘を分ける《境》としてのサカに沈め(鎮め)られていたところの、イハサカ(磐境)であったにちがいない。すなわち、織幡の神の神奈備山の沖の海中の磐境である。海の中あって二つの灘を分けるサカの神としてイハ(斎)われていたのである。そして、おそらく、この鐘に似た岩は鳴り響いていたのであろう。響灘という名はそうしたことを想像させてくれる。
 ところで、『日本書紀』の「一書(あるふみ)」によれば、「道主貴(みちぬしのむち)」と呼ばれる宗像大神が最初に天下ったところが「宇佐嶋」なのである。もちろん、宇佐嶋というのは、全国の八幡社・八幡宮の総本宮の宇佐神宮の鎮座地のことである。古代は宇佐も島だったのである。
すなわち、宗像大神は最初から八幡大神と結び付く契機を胚胎していたわけである。八幡大神の一柱を担う神功皇后は、三韓征伐のさい、スミヨシ三神、ムナカタ三神、志賀島のワタツミ三神の加護を受けた。さらに、織幡宮のばあい、神功皇后の唯一の大臣だった武内宿禰が主祭神として関係してくる。じつは、織幡という社号は、武内大臣が織らせたという紅白二流の幡(旗)から生じているのである。
 神功皇后の三韓征伐のとき、宗像大神が捧げた御手長に、武内大臣が織らせた旗を掲げて闘い勝利をした、という故事から「織幡」という社号が起こっているのである。壱岐島の一ノ宮の天手長男神社は、この「御手長」から発している。織幡神社の相殿の神の壱岐真根子臣は、その幡を掲げた人物らしい。ちなみに、対馬の出身で「経済企画庁→国土庁」時代の国の離島振興行政を担い、国の離島振興課長を経て日本離島センターの専務理事をした故・児玉さんは、この天手長男神社を篤く崇敬していた。
 いずれにせよ、織幡神社はその地理的位置もあって、大島・沖ノ島を含めた宗像郡の島々と、壱岐・対馬、志賀島の安曇一族をつなぐ役目を果たしていた、と考えられる。もちろん、それぞれ三神から成る宗像・八幡・住吉・綿津見の大神―いうならば、アマ(海人)族の神々―を結び付ける役目も持っていたのである。ちなみに、鐘崎は潜水する海女の発祥地でもある。
 なお、わたしはこの夏の仕事として、10月25日発売の「別冊歴史読本99」の『全国八幡神社名鑑』(新人物往来社、2,000円+税)の中の「全国主要八幡神社事典」で123社の八幡社のプロフィール(400字詰め100枚)を書いたが、今、思うと織幡神社を含めればよかったと若干、悔やんでいる。また、同じ本の中で、わたしは「聖母・神功皇后の神秘性の根源―処女懐胎のヒメの霊能―」(400字詰め16枚)も書いておりますので合わせて、ご覧下さい。

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