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05 《特定外周領域》の淵源とその系譜――ひとつの試論のための荒削りの素描―― |
2003.02.15
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昭和21年(1946)1月29日、連合国軍総司令部(GHQ)は「特定外周領域の日本政府よりの政治的行政的分離に関する件」という覚書を発表した。この《特定外周領域》には、戦後、段階的に本土復帰を遂げた奄美群島、小笠原諸島、沖縄県の全域のほか、いまなおロシアとの間で領土問題が未解決の北方領土の島々や、韓国との間で帰属が争われている隠岐の竹島はもちろんのこと、そして、じつは、なぜか伊豆諸島の全域とトカラ列島の下七島(現在の鹿児島県鹿児島郡十島村)も含まれていた。
伊豆諸島の場合、GHQが同年3月22日、日本への復帰を指令したことから日本政府は行政権を回復させたが、その53日間、伊豆諸島は奄美・小笠原・沖縄と同じ位相に置かれていたのである。そして、この突然の《分離》に当惑しながらも、伊豆大島では日本からの独立を模索して大島憲法草案(暫定・大島憲章)を起草している。それは、法律の専門家ではない、ふつうの島民が急遽、みんなで議論しながら策定した民衆憲法だった。
ちなみに、この伊豆七島の《復帰》のとき、GHQの一部では《伊豆七島》には含まれない青ヶ島を小笠原に組み入れようとする動きもあったといわれている。しかし、結論的には八丈島との強い関係から他の伊豆諸島と同じく日本へ復帰することができたのだという。だが、青ヶ島の場合は、ほんとうの本土復帰は、奄美群島よりも遅れたということができるのである。
ところで、他の《特定外周領域》の復帰のプロセスを、わたしの評註を加えながら年表ふうに追ってみたい。
◎ 昭和26年(1951)12月5日…鹿児島県大島郡の旧「十島村」(じっとうそん)の下七島が鹿児島県に復帰。昭和21年2月の「覚書」によって、北緯30度線が暫定国境線と定められ、奄美諸島と同じく大島郡に属していた旧「十島村」が上三島と下七島に分断された。ちなみに、この旧「十島村」は本来、役場を仲之島に置いていたが、下七島が行政分離されたため、上三島だけで「十島村」を名乗り、役場を鹿児島市内に置いた。ところが、下七島の復帰によって、上三島では旧「十島村」を復活させるか、新たに分村するか、で議論となって住民投票した結果、675票中651票の賛成で「三島村」として独立することになり、昭和27年2月、今日の三島村(みしまむら)と十島村(としまむら)が誕生した。なお、昭和48年、両村は共に大島郡から鹿児島郡へ区域変更された。
参考:「昭和26年12月5日附連合国最高司令官覚書『若干の外かく地域の日本からの政治上及び行政上の分離に関する件』に伴う鹿児島県大島郡十島村に関する暫定措置に関する政令」(昭和26年政令第380号)
◎ 昭和28年(1953)12月25日…奄美群島の本土復帰。ちなみに、軍政時代は臨時北部南西諸島政庁(昭和21年2月〜25年11月)、奄美諸島政府(〜昭和27年3月)、琉球政府の奄美地方政庁(〜昭和28年12月)によって行政が行われた。
◎ 昭和31年(1956)7月8日…青ヶ島で初めての国政選挙(参議院議員選挙)。《伊豆七島と伊豆諸島》の中でもふれたように、公職選挙法施行令第147条の規定によって、青ヶ島村は国・都レベルでの選挙権が奪われていた、すなわち、日本国憲法はその前文で「日本国民は正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し…」とあるのに、その選挙権を行使できなかったということは、そのときまでGHQの《特定外周領域》の精神が生きていたということである。そのことにかんして、そういう政治的な問題ではなく、ただ単に青ヶ島が遠く不便な島であったため、開票結果を報告するための「無線電話」がなかっただけだよ、と指摘する向きもあるが、公職選挙法施行令第148条が十島村(下七島)にたいし、青ヶ島の場合とほとんど同じ文章で選挙権を奪っていたという事実を考えると、地理的条件プラス物理的条件が理由と考えることはできない。いいかえれば、このとき、青ヶ島はようやく本土へ復帰することができたといえよう。
◎ 昭和43年(1968)6月26日…小笠原諸島が復帰。昭和54年4月、村長選と村議選が行われ、自治権を全面回復。
◎ 昭和47年(1972)5月15日…沖縄の本土復帰。
詳しくは、わたしの編著『日本の島事典』(三交社、1995年)を参照していただきたい。
ところで、明治政府は明治21年(1888年)4月、市制及び町村制を公布(あくる22年4月1日施行)したが、明治22年勅令第1号「町村制ヲ施行セサル島嶼指定ノ件」で島嶼のかなりの部分が市町村制の対象から外された。その論理的延長線上で、差別的色彩の強い明治40年勅令第46号の「沖縄県及島嶼町村制」が公布された。これは結論的には、のちの《特定外周領域》を先取りするものだった。しかし、青ヶ島などは、この島嶼町村制からも見放された。
大正7年(1918)、長崎県の対馬国と島根県の隠岐国にも普通町村制が敷かれ、大正9年には沖縄県が、その翌年の大正10年には伊豆大島・三宅島・八丈島にも普通町村制が適用されたが、《伊豆七島と伊豆諸島》でも指摘したように、八丈小島や沖縄の大東諸島など一部の島々では、島嶼町村制も普通町村制も適用されることなく、戦後を迎えた島も多いのである。
離島における明治以降の市町村制の動向を、じつは、わたしはまだほとんど何も掴んでいないが、いわゆる《島嶼町村制》が《沖縄県及…》となっていることに、わたしは注目している。
ところで、沖縄の自由民権運動の先駆者的存在の謝花昇(じゃばな・のぼる、1865−1908)が明治41年、奈良原繁知事の圧政への抵抗の中で狂死するのが、この《沖縄県及島嶼町村制》の施行(明治41年4月1日)と同じ年である。ちなみに、その5日後の4月6日奈良原知事は退任し、10月29日、謝花は43歳の若さで亡くなっている。
話はそれたが、この《沖縄県及島嶼町村制》の延長線上に《特定外周領域》が発生したように思えてならない。
とくに、伊豆諸島の場合は、《伊豆諸島という呼称の変更の問題について》でもふれたように、『延喜式』神名帳に登載されている「式内社」が23座も点在している。すなわち、平安初期の時点で、《日本》の行政権が及んでいたのである。にもかかわらず、伊豆諸島が《特定外周領域》に含まれたのは、やはり《沖縄県及島嶼町村制》の影響があったからではないだろうか。そして、この差別的色彩の強い、いわゆる《島嶼町村制》に強く抵抗したのは、沖縄県と伊豆諸島の民衆であったからだ。だが、沖縄と伊豆諸島が連帯する場面は現われなかったのである。
わたしは、こうした《シマ》差別の淵源が今からちょうど150年前のペリーの浦賀来航(嘉永6年=1853)時の、幕府が小笠原諸島や北方領土を日本領土として提示した際の論拠となった林子平の『三国通覧図説』にあるのではないか、と思っている。ただし、この問題に関しては、兵学者・思想家の林子平(1738−93)は功労者であって、寛政5年(1793)蟄居閉門中に56歳で憤死(幕府の言論弾圧による事実上の獄死)した林子平にはまったく責任はない。なお、この件に関しては、5月か6月にUPしたい。
(伊豆諸島の呼称変更の可能性が、先頃、東京都島嶼町村会によって正式に断念されました。皆様の蔭のご協力に深く感謝いたします。)
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