目 次
01 生国魂(いくたま)
02 伊豆諸島という呼称の変更の問題について
03 カクレ青ヶ島ファンだった高円宮憲仁親王殿下の薨去を、こころから哀悼いたします
04 伊豆七島と伊豆諸島
05 《特定外周領域》の淵源とその系譜 ――ひとつの試論のための荒削りの素描――
06 ペリーの浦賀来航と沖縄、小笠原諸島、そして林子平の関係
07 ジル・ドゥルーズの《無人島》を読んでの心覚え
08 御蔵島という島名の中のクラという語の意味
09 尖閣、竹島、北方四島の問題――再び《特定外周領域》について――
10 伊豆七島は静岡県だったんですよ ー ある歴史学者はかく語りき ー
11 青ヶ島で国民年金の担当をしていた頃
12 宗像の津加計志神社と織幡神社を参拝して
13 国会議員および島を愛する全ての人へのお願い
14 公職選挙法施行令(昭和25年5月1日施行)第147条について
15 イザヤ書における「島々」の意味―世界史の交差点としての島々―
16 旧暦の霜月の寒さでタマフリの必要性を感じたこと
17 幻の鬼ヶ島(神奈川県川崎市中原区市ノ坪)を探しに行く
18 大田区の旧・鵜ノ木村の飛地・沖島(奥島)について
19 聖性と賤性が交錯するシマとしての窟
20 玉川弁財天と要島 ― 江戸時代の「水母なす漂へる島」を修理固成した要石の役割 ―
21に続く
08 御蔵島という島名の中のクラという語の意味
2003.11.15
 
 御蔵島には二度、出かけたことがある。というよりも、まだ二度しかない、といったほうがよいかもしれない。一度目はたしか昭和59年9月末、二度目は平成13年1月下旬のことだった。
 昭和59年のときは、釣り雑誌の編集長をしていた友人に同行しての訪島だった。もちろん、釣りに出掛けたのである。それも海釣りではなく、山へ出掛けたのである。ちなみに、わたしは計6年間の青ヶ島の生活の中で釣りをしたのは、たったの一回だけである。
 場所は御蔵島の南側の御代ヶ池。最高点851メートルの御山の中腹500メートル付近に広がる火口湖である。御蔵島には都指定の天然記念物の鈴原湿原もあり、御代ヶ池も季節や雨量によって、その大きさを微妙に変化させる。その池に幕末のころ、放流された鯉の子孫がいるのである。それを釣ろうというわけである。役場職員が道案内をかねて同行してくれたが、その人が海釣りよりも面白い、というほどの楽しい釣りであった。
 二度目は、三宅島島民の全島避難後、御蔵島の島民生活がどう変化したか、ということを体験するためだった。というのも、御蔵島の連絡船は三宅島の阿古漁港を母港としていたからである。とうぜん、御蔵島島民の生活物資のほとんどは三宅島を経由してもたらされていた。それが平成12年9月以降、ストップしてしまったのだから大変である。交通体系の変化が島民生活に、どのような変化が現われたか、を知りたかったのである。
 ただ御蔵島の場合は幸運だった。バブル崩壊後の景気低迷の中で、東京の業者が販路の拡大を目指して、御蔵島の商店・民宿へ電話をかけてきたからである。しかも東海汽船の八丈航路が無人化した三宅島を素通りして御蔵島へ直接、立ち寄るようになったからである。ただ当初は、新島を母港とするようになった連絡船が大島・波浮港と新島、御蔵島をつなぐ航路がメインだったため、結構、苦労した様子だ。
 そして、想ったことは、もし八丈島が噴火して全島避難という事態になったら、青ヶ島の場合は立ち行かないだろう、という厳粛なる事実であった。ヘリも船もすべてが八丈島を基点にしているからである。御蔵島や三宅島から物資を運ぶにはかなり遠すぎるし、そうかといって週1便の小笠原航路の途中寄航というのもなかなかむつかしい。三宅島から立ち昇る噴煙を見ながら、御蔵島は本土に近いと改めて実感した。ちなみに、そのときの滞在のとき、御蔵島の公衆電話が全国どこへ掛けても無料であることを発見し、御蔵島の状況を全国各地へ電話した(NTTさん、ありがとう、ごめんなさい)。
 さて、ここからがいよいよ本題である。御蔵島という島名はどこから生じたか、という問題である。当然のことながら、漢字は当て字であるから、ミクラという語を問題にしなければならない。
ただし、御蔵島の場合、三宅島との対比で考える必要がある。そこで、まず、三宅島の島名の由来を考えてみたい。おそらく、ミヤケには御焼、宮家、御宅、御屯(屯倉)の語義がある。「御焼」は三宅島が何度も噴火をしていること、「宮家」以下の語は三宅島に式内社が13座も鎮座している神々の島という事実と関係があろう。
 岩波書店の『広辞苑』によれば、ミヤケとは〔ミは接頭語。ヤケはヤカ(宅・家)の転、屋舎、倉庫の意〕「@大和朝廷の直轄領から収穫した稲米を蓄積する倉。転じて、朝廷の直轄領。宮家・屯家・屯宅・三宅とも書く。」とある。
 この考えを適用すると、三宅島は神々の「屯家・屯宅」だったといえよう。ところが、そうなると、御蔵島のミクラが困る。ミ・クラも、たぶん、み倉(庫)であるからだ。大きな倉庫と、それよりも小さな倉庫と考えることも可能であろう。しかし、二つも必要とはしないのではあるまいか。そこで、三宅島のほうを「神々の家(御宅)」、御蔵島を「神々の倉庫(蔵)」というように考えることもできる。
ところで、注目すべきは、御蔵島の標高である。伊豆諸島では、大島764。(三原山)、三宅島813。(雄山)、御蔵島851。(御山)、八丈島854。(八丈富士)と、御蔵島は八丈島に次ぐ高い標高を持っている。伊豆諸島の開闢神話の故郷の神津島の天上山572。から眺めると、八丈島は遠くて見えないが、御蔵島の高さは目立つのである。そうしたことを考慮に入れると、御蔵島は神(ミ)の鞍(クラ)・座(クラ)から来ているのかもしれない、と考えることができる。面積のわりには御蔵島の標高はひじょうに高いのである。御蔵島の島影は気高く、そして神秘的に見えるのである。
 さらに、御蔵島の語源には、もう一つある。有吉佐和子の御蔵島をテーマとした小説のタイトルにもなっている『海暗(うみくら)』である。すなわち、御蔵島と三宅島との間を横切る黒瀬川(黒潮)のことである。この海流を境として伊豆諸島の南部(八丈島、小島、青ヶ島)と北部(大島、利島、新島、式根島、神津島、三宅島、御蔵島)とでは、言語も民俗も異なるほどである。
 ただし、黒潮の黒さは透明感のある、透き通ったクロサである。本来は、決して暗くはないのである。しかし、暗く見えることもあるらしい。というのは、海の中に〈谷〉があるからである。じつは、クラという語には「谷」の義もあったようなのである。そのクラが海の中のものなのか、山の中のものなのか、わたしには判らないが、〈海暗〉説も魅力的である。
 御蔵島のクラがどこから来ているのか、即断することはできないが、その島名はいろいろなロマンを与えてくれる。
 
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