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17 幻の鬼ヶ島(神奈川県川崎市中原区市ノ坪)を探しに行く |
2006.03.02
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たまたま池上図書館で『新篇武蔵風土記稿』をパラパラめくっていると、「巻之六十五橘樹郡八」の「市ノ坪村」の項に“鬼ヶ島 巽ノ方ナリ”という記述に出くわした。同じ“鬼ヶ島”の異名を持つ青ヶ島に住んでいたことがあるわたしとしては、これを放っておくわけにはいかない。『稿』には「東ハ中丸子村ニ隣リ」とあり、大田区池上の我家からさほど遠くないことがすぐわかった。
なにしろ川崎市は谷川健一氏の地名研究所の運動を支援しており、明治初年の字名は今なお地名に留めている。地図を見ると、川崎市中原区に市ノ坪があった。大田区下丸子のガス橋を超えれば、ちょっと、その先である。早速、自転車に乗って出かけてみた。
まず最初に訪ねてみたのは、JR南武線・東急東横線の武蔵小杉駅にほど近い市ノ坪神社である。『稿』に出てくる「村ノ北ニ」ある「太神宮」と、「第六天社」とその境内社の末社御嶽社・稲荷社を、明治になって合祀した際、市ノ坪神社と改めたものである。東福寺という寺も「村ノ北」に今もあるが、神社仏閣は市ノ坪の他の地区にはないのである。
もちろん、市ノ坪の巽(つまり南東)に現在、「鬼ヶ島」という「小名」は残っていない。それは最初からわかっていた。わたしなぞ「鬼ヶ島」というと、最高級のプラス・イメージのロマンティシズムを感じるが、世間様はそれとはまったく逆のマイナス・イメージを意識するのである。おそらく蔑称中の蔑称なのであろう。
「市ノ坪」という地名は、『やさしい川崎の歴史』(川崎歴史研究会、1970)によれば、古代の条理制にもとづく耕地整理によるもので、「市内の市ノ坪・小杉・苅宿や久本・末長などにこのあとが見られます。」(同書40ページ)とある。すなわち、この本によれば、市ノ坪は古くから開けていたことになる。ところが、『稿』には、次のように書かれている。
「水損の患あり。地形すべて平かにして民家は四十九軒あり。村内に散住せり。この村古きこととは伝えず。元は鹿島田村と一村なりと、かの村にすめるものの口碑に残れリ…」(なお、引用に際してはカタカナをひらがなに直し、句読点を入れた。)
つまり、まったく逆なのである。しかも、水損の患ある地形なのである。実際、一キロほど東側には、多摩川が流れている。昔は、すぐ洪水になる地域だったのである。したがって、“鬼ヶ島”と呼ばれる島があっても、けっして変ではないのである。もちろん、市ノ坪が古くに開けたにもかかわらず、その後、洪水などで人が住めなくなったということはあるだろう。
今から約二百年前の文化5年(1808)の、夏から秋にかけて関東地方に大雨が降った。このとき、多摩川の流域でも堤が破れて大水になった。堤防の決壊箇所の補修工事と点検の吟味役として、大田南畝(通称、直次郎。1749〜1823)こと狂歌・洒落本・黄表紙の作家・大田蜀山人がその年の暮れの12月16日からあくる6年4月3日まで多摩川流域(現在の東京都側と神奈川県側の流域)を巡視した。そのときの紀行文が『調布日記』だが、周辺の村々の名は何度も登場するのに、なぜか市ノ坪だけは出てこないのである。
この市ノ坪の東側に「下沼部」という地名がある。ここはまさに多摩川と接している土地である。現在は川崎市中原区下沼部(もと橘樹郡御幸村下沼部)だが、明治45年3月31日までは東京府荏原郡下沼部村だった。すなわち、現在の東京都大田区田園調布1丁目55番の亀甲山(周辺は古墳群)に鎮座する浅間神社の氏子地域だった所である。多摩川を挟んで大田区側の旧・下沼部村はいわゆる高級住宅地・田園調布として知られているが、東急の五島慶太がここの低丘陵地帯を放射状に開発し田園都市として売り出す前は、地元の人がガケシタをよんでいた場所もあったのである。ひょっとすると、市ノ坪の“鬼ヶ島”も、そのように見られていたのではないだろうか。
市ノ坪には、西から東にかけて東急東横線、東海道山陽新幹線、JR横須賀線(昔は品鶴線)、JR南武線の4本が走っている。その中で、横須賀線と南武線に挟まれた地域が「巽」にあたる。あるいは、苅宿に接する新幹線と横須賀線に挟まれた三角地帯かもしれない。そして、わたしは勝手に、府中街道沿いの中原区市ノ坪581の、「市ノ坪住宅」標識のある信号の付近ではないか、と想像した。
ちなみに、『新篇武蔵風土記稿』(1830、幕府に上程)(大日本地誌大系、雄山閣)には、村の西境の木月村(現・木月住吉町)と苅宿村を流れる「用水路」(現・二ヶ領用水〈新川〉)の記載があり、地形的には「市ノ坪住宅」周辺ではないかと想われる。ただし、その『稿』を記すための調査があった頃、実際に、その“鬼ヶ島”が存在していたか、はわからない。ともあれ、市ノ坪の“鬼ヶ島”よ、湧き出でよ!
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