目 次
01 生国魂(いくたま)
02 伊豆諸島という呼称の変更の問題について
03 カクレ青ヶ島ファンだった高円宮憲仁親王殿下の薨去を、こころから哀悼いたします
04 伊豆七島と伊豆諸島
05 《特定外周領域》の淵源とその系譜 ――ひとつの試論のための荒削りの素描――
06 ペリーの浦賀来航と沖縄、小笠原諸島、そして林子平の関係
07 ジル・ドゥルーズの《無人島》を読んでの心覚え
08 御蔵島という島名の中のクラという語の意味
09 尖閣、竹島、北方四島の問題――再び《特定外周領域》について――
10 伊豆七島は静岡県だったんですよ ー ある歴史学者はかく語りき ー
11 青ヶ島で国民年金の担当をしていた頃
12 宗像の津加計志神社と織幡神社を参拝して
13 国会議員および島を愛する全ての人へのお願い
14 公職選挙法施行令(昭和25年5月1日施行)第147条について
15 イザヤ書における「島々」の意味―世界史の交差点としての島々―
16 旧暦の霜月の寒さでタマフリの必要性を感じたこと
17 幻の鬼ヶ島(神奈川県川崎市中原区市ノ坪)を探しに行く
18 大田区の旧・鵜ノ木村の飛地・沖島(奥島)について
19 聖性と賤性が交錯するシマとしての窟
20 玉川弁財天と要島 ― 江戸時代の「水母なす漂へる島」を修理固成した要石の役割 ―
21に続く
11 青ヶ島で国民年金の担当をしていた頃
2004.07.15
 
 もうずっと前から、国民年金の現状について、わたしは大きな不満をもっている。このままでは、国家的詐欺になるのではないか、と案じている。今月は、本当は「離島の根性と防人意識」と題して書くことにしていたが、それを8月にまわすことにして、今月はわたしが青ヶ島村役場で国民年金の担当をしていた頃のことを書いてみたい。
 わたしが国民年金の担当をしていたのは昭和46年5月から48年12月までの32ヶ月のことである。前任者のKさんが役場を辞めて青ヶ島を離れたあとの数ヶ月間、国民年金の担当者は不在だった。そのため、検認率は大幅に下がっていた。すなわち、納付率が低下していたのである。
 たしか、わたしの記憶では、昭和46年4月から1ヶ月の国民年金の保険料が450円になっていた。その前の3月までの保険料がいくらだったか、ちょっと思い出せないが、たぶん350円ではなかったかと思う。そして、国民年金担当のロッカーには150円の印紙も残っていたように憶えている。なお、これを書いていて思い出したが。昭和48年4月には月額550円になったのではないかと思う。
 いずれにせよ、今から思うと、驚くほどの低額である。しかし、島民からは、当然のことながら、掛け金(保険料)の値上げに対しての不満の声が持ち込まれた。「夫婦で1ヵ月900円、3ヵ月ごとの徴収で2,700円。ちょっと出費が重なると、けっこう大変。」「うちなんか、4人分も払わなければ…」(当時、青年層のUターンが始まっていて、やはり親が払うのが一般的だった。) 「バイ(婆)ちゃんが老齢福祉年金を貰っているので、わたしらが払わないと…」等々の声が聞かれた。
 そうした中で、「毎月、払うどうて、毎月、掛け金を取りにおじゃれよーい」ということになった。当時、わたしは国民年金、国民健康保険、老人福祉、その他福祉関係のすべてをひとりで担当していたが、そうした仕事のついでで出かけたとき、国民年金保険料を集めた。その結果、国民年金の検認率は飛躍的に改善された。
 おそらく、着任当初の検認率が20%ぐらいだったのが、その年の暮れには80%台となり、以後、時々100%を超えた。なにしろ、検認率というのは、ある月の前月の時点での検認の率であるからだ。たとえば、7月に、わたしはその月の分として60%近く集めるが、6月までの分として100%の実績を挙げていると(実際は100%でなくとも平気)、7月の分は確実にプラスαということになる。少人口ということもあって、しばしば検認率トップになったことがある。とくに、月額550円になってからは、3ヵ月毎ではなく毎月、取りに来てほしいという要望が増えたように記憶している。
 小さな離島の自治体では、どこでもそうであったが、役場が住民の国民年金手帳を預かっており、保険料が納付されると、係りは手帳に丁寧に印紙を張り、そこに検認の印を押すのである。今も印紙を購入する方式のようだが、全国どこでも手帳に印紙を張らないようである。すなわち、事務処理を合理化しているのに、印紙が使われないように、ただ汚しているだけのようである。
 ところで、30年前の時点で、島民の中には、今日の国民年金の状況を鋭く指摘している人もあった。すなわち、高齢化が進み、しかも寿命が延びると、資金が枯渇してしまうのではないか、というようなことを、もっと実感的に、生活者的な意見で述べる人がいたのである。それにたいし、わたしは国・都の資料を前にして、「大丈夫」と太鼓判を押したが、同時に、ひょっとして、国の根拠は“ねずみ講”的発想に基づくものではないか、と思ったのも事実である。
 しかし、わたしは、国民年金の熱心な担当者であった。Uターンで同世代の青年が帰島すると、その両親を説得して国民年金に強制加入させた。学校の教員が奥さんを連れて赴任すると、青ヶ島に来るまでは厚生年金であったことを確認すると、任意加入させて、国民年金保険料を納めてもらった。
青ヶ島の番号をもった国民年金手帳を、結構、発行したである。また、生活保護世帯の何軒かが国民年金に加入していない事実を知ると、強制加入させ、同時に“法免”の手続きを取った。また、年金料が払えないといえば、“申免”の手続きもした。
 国民年金の将来に漠たる不安を持ちながらも、国民年金事務の最前線で仕事をしてきた自負はある。昭和49年1月、わたしは青ヶ島を離れて、その年の9月からフリーの編集者兼ライターとして国民年金を払うようになったが、しばしば保険料は高い、と思うようになった。保険料は900円、1,350円…の時代を経て、今は月額13,300円である。夫婦で26,600円である。これは非常に異常に高い金額である。これじゃあ、未納が多くなるのは当然でないかと思う。
 じつは、わが家では、数年前から“申免”の手続きをしている。払えるほどの年収を物書きとして確保していないからである。人生はいろいろかもしれないが、未納者は払える収入を持っていないのである。
 わたしが国民年金の担当をしていた頃の450円という金額は、おそらく当時の1日分の最低賃金の半分の金額である。ちなみに、現在の最低賃金の1日分は、およそ6.200円前後らしい。つまり、その半分の3,000円ぐらいが適正な料金である。すこし景気付けしても3.500円ぐらいのものである。おそらく、この金額なら、未加入者も加入し、未納者も収めようと思うに違いない。
 青ヶ島で国民年金の担当をしていた頃の原点に立つと、今日の年金保険料がべラボーであることがわかる。13,300円の国民保険料を支払える人は、532,000円の月収がなければならない。今の景気で、そういう人が国民の何パーセントいるのだろうか。国民年金の保険料は、最低賃金の1日分の半分の金額にすべきである。
 
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