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07 ジル・ドゥルーズの《無人島》を読んでの心覚え |
2003.10.05
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ジル・ドゥルーズ(Gilles Deleuze)/前田英樹監修『無人島 1953−1968』(河出書房、2003年8月)をタイトルにつられて読んだ。ただし、ここに記すのは、その冒頭の「1 無人島の原因と理由」(前田英樹訳)についての、わたし自身のためのメモである(もちろん、立論ではありません)。
島が想像力を喚起させるということ。想像力を膨らませる情報。《科学が神話を具体化させ、神話が科学に生気を吹き込むように。》
ジル・ドゥルーズによれば、島には〈大陸島〉と〈大洋島〉の2種がある。彼は後者を〈始原的、本質的〉と捉える。その地理学的、いな、地球物理学的な違いの相を、ごく簡単に記述していく。
〈島が無人である〉ということ。〈人間は、島が示すものを忘れることなしに島には住めない。〉
〈人が島を夢想するとは、その人が分離すること、すでに分離されてあること、大陸から遠ざかり、一人ぽっちで寄る辺もないこと、を夢想することにほかならない。あるいは、それはゼロからの再出発を、再創造を、再開を夢想することである。〉〈…島についての想像力の運動は、島を作り出す運動をやり直す。〉〈大陸から分離されているものは、もはや島ではない。島の上にいて、自分が世界から分離されていると感じるものは、人間である。〉〈よくよく思い巡らせば、そこで人はありとあらゆる島が、理論上無人であること、あり続けることの新たな理由を見出すだろう。〉
おそらく、ジル・ドゥルーズの〈島〉概念の根底には、フランス語の島を意味する〔ile〕(イル:女性詞、単数形)とその動詞の〔isole‘〕からの発想があったのであろう。
たとえば、フランスの作家で、アルジェリア在住時代はアルジェ高校でアルベール・カミュの師でもあったジャン・グルニエ(Jean Grenier)は、『孤島』(Les Iles)の「イースター島」の章の中で、クック船長の航海記を引用する形で、次のように述べている。
「…人は島ileのなかで、孤立isole‘する(それが島の語源isolaではないか?)。一つの島は、いわばひとりの孤独の人間。島々は、いわば孤独の人々である。」(井上究一郎訳、竹内書店、1968)
たしか、リンドバーク夫人も、『海からの贈り物』の中で、同様の考えを展開していた。
〈ひとつの島が無人島でなくなるためには、なるほど、単に人が住むだけでは足りない。島にかかわる人間の運動は、人間以前の島の運動をやり直す。もしそれが本当だとしたら、人々は島に居着くことができるが、そこはなお無人であり、なおいっそう無人になる。ただ彼らが、充分に、つまり絶対的に分離され、充分に、つまり絶対的に創造的であるとするなら、漂流者がこうした状況に近づくとしても、たぶん実際には決してこんなふうではない。〉
島の《理念型》としての無人島。島の《原型》としての無人島。人間の想像力の原基としての無人島。神話を創造する人間の想像力の原郷としての無人島。
無人島への回帰が島を産み出す原動力となる。島起こしの原動力としての〈無人島〉への回帰。〈無人島〉への想像力が生み出す人間の創造性。
無人島とは想像力の問題なのだ。《国生み神話》、いな、わたしたちの《島生み神話》の原点に戻ること。そこから島起こしが始まる。わがこころの内なるオノコロ島。
〈宇宙の卵〉としての〈無人島〉。大洋と水との隔離。そして洪水。八丈島のタナバ伝説もそのひとつの典型だ。単性生殖という名の女性原理。〈聖なる島〉としての〈無人島〉。
ジル・ドゥルーズの〈島〉概念。欧米人の〈島〉概念。そこには、おそらく旧約聖書のイザヤ書がある。イザヤにおける《島》の概念。
とくに、第二イザヤ(イザヤ書40〜55章の著者と考えられている紀元前6世紀後半の無名の預言者)には、8ヵ所もの島の記述がある。
一般的には、イザヤ書の島は《国》と同義だといわれている。イザヤ書は詩篇にも通じる詩魂の躍動がある。だから《国》を《島》と言い換えた、というわけである。
しかし、第二イザヤの島々には、エーゲ海あたりの現実の島々を見た光景を彷彿とさせる。もちろん、イザヤ書の《島々》が《国々》の義であった可能性はある。しかし、砂漠の中で、まだ見ぬ異邦を想像することは、むつかしいのではあるまいか。
その点、現実の島々は、異邦の国を詩的に直観させてくれる。近くに見える島々、遠くに見える島々、遠すぎて何もかもボヤッとしているけれど、おそらく確実に存在しているであろう島々。第二イザヤの島々はそういう島々ではなかったろうか。
しかも、第二イザヤの見た島々というのは、彼の布教対象としての島々だった。異邦人の住む島というのは、宗教的に見れば、《無人島》なのだ。第二イザヤは自らを「油を塗られた者」と規定している。第二イザヤという旧約世界の預言者には、イエス的要素とパウロ的要素が混在していた。
つまり、第二イザヤは、ジル・ドゥルーズふうにいえば、ヴァーヴァリアンの住む、まだ理論上は〈無人島〉であるところの、幻視の《島々》を《島》へつくりかえようとしたのである。
ブレーズ・パスカルの『小品集』の中に「大貴族の身分について」という作品があるが、その第一講話の中の〈島〉の話も、理論上の〈無人島〉といえる。富の源泉についてのパスカルの経済学的萌芽というような感じのものだが、その話も〈分離〉を根底にしているといえるだろう。
いずれにせよ、ジル・ドゥルーズの〈無人島〉の概念には、第二イザヤと同じく世界史的視座がある、ただし、ジル・ドゥルーズは次の瞬間、それを解体させようとしている。
〈島〉という概念を絶えず無化して考えること。〈無人島〉という概念を無化して考えること。シマの原点に立ち戻ること。
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