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16 旧暦の霜月の寒さでタマフリの必要性を感じたこと |
2005.12.30
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この12月、すなわち旧暦の霜月(12/2〜30)は、ことのほか寒く、お蔭で今まで気が付かなかったことが実感できました。
《でいらほん通信拾遺》第29話「カナヤマサマと金山祭り」にも書いたように、12月9日(旧11月8日)、我家の庭のオボシナサマの前で、青ヶ島のカナヤマサマに思いを馳せながら国地のフイゴ祭りをまねて、五寸釘のナイフを作り、カナヤマサマに奉納しました。実際は、五寸釘を打ち始めたところで、故障したパソコンの再設定に電気屋さんが見えたこともあって、その日は作りかけが4振りだけで、12月12日午後、あらためて作り直し、計10振りを作りました。9日も12日も冷たい北西風は背後から吹きつけ、七輪の炭火は真っ赤に燃えて、熱くなった五寸釘を鍛えることができました。
村の鍛冶屋さんのようなフイゴを持っていなかっただけに、この北風は鉄を打つには好都合でした。おそらく、そのことは、昭和20年以前の村々の鍛冶屋にとっても、重要なことだったと思われます。とくに、古代の野タタラによる製鉄は、自然の風まかせでした。金山祭りやフイゴ祭りがこの季節に行われることが実感できました。
ところで、鍛冶神と風神の二つの性格を併せ持った神として、アナシの神があります。漢字で書くと、「穴師」となります。この「穴」は鉄穴(カンナ←カヌ〈カネ=鉄〉・アナ)、あるいは蹈鞴(タタラ)の外壁を作る粘土を掘ったときの穴、ひょっとすると野ダタラそのもの、と考えることができます。また、穴師の「師」は文字どおり穴掘りの師と考えることもできますが、アラシ(嵐)の「シ」と同じく「風」を意味していたであろうと思えます。いずれにせよ、鍛冶・蹈鞴の金属工業には、深く自然の風が係わっていたようです。五寸釘を鍛えていると、わたしには、アナシのアナは風神の神威にたいする感嘆詞の「あな」のように思えました。ちなみに、アナシの神は、一般的には風の神様と考えられています。
12月26日(旧暦11月25日)は、本来なら青ヶ島の大里神社のお祭りです。昭和41年以来、途絶したままの〈でいらほん祭り〉と〈えんだん祭り〉は、この大里神社の例大祭の特殊神事として執り行われたものです。わたしは今までに、これらの祭りの原像が旧暦の霜月の冬至祭にあることを、あちこちで論証してきました。そして、この寒さで、冬至祭の本質が、あらためて鎮魂(チンコンやタマシズメではなく“タマフリ”と訓め!)にあることを再確認しました。
すなわち、奥三河や出雲や高千穂などの霜月神楽系の神事の原点が奈辺にあるのか、ということです。雪に覆われた山間の地で霜月神楽の伝統が厳修されてきたということは、明らかに太陽(日光)の復活を人びとが渇望したことを意味しています。青ヶ島のような孤島においては、太陽の復活もありますが、むしろ季節風による〈疎外〉からの回復の願いがあるでしょう。
12月22日の冬至の日、TVニュースによると、三宅島でも横殴りの雪が降ったようですが、おそらく青ヶ島でも霰が窓ガラスを叩いたのではないでしょうか。青ヶ島に住んでいた頃、しばしば「青ヶ島は東京よりずいぶん暖かいのでしょう?」とか「青ヶ島では雪は降らないのでしょう?」と聞かれたことがあります。
「平均気温は2〜3℃高いけれど、風が強いので体感気温は逆に寒く感じられます」とか「関ヶ原周辺を通り抜けた北西風が太平洋の暖かい水蒸気(ただし、あくまでも相対的に)を吸い上げて、それが島にぶつかると、積もらないけど雪がしばしばちらつくし、霰はよく降る」と応えると、東京(国地)の人にはなかなか理解してもらえなかったようです。なかには、「そんなこと(雪が降るということ)はありえない」とあしらわれてしまったこともありますし、そういう馬鹿なことを言うのは離島民特有の“島国根性”の現われだと批判されてしまったこともあります。まあ、わたしに言わせれば、聞く耳も持たない国地の人のほうが度し難い島国根性の持ち主ということになりますが…。
それはさておき、冬至の頃というのは、季節風の影響で、かつては島が完全に閉ざされることが多く、まさに、タマフリが必要な時期でした。人びとの魂も島地の霊魂もその活力を失っていて、タマフリが必要だったわけです。2度目の青ヶ島を離れて、すでに12年が経ちますが、そのことをつよく感じました。
この冬至の日、日本の人口が初めてマイナス方向に転じた、ということが報じられました。すなわち、大八島国の霊魂そのものが弱体化し、タマフリをしなければならない状態になっている、といえるでしょう。苅磨島という島(「島殿」という女性に仮想・仮託させている)へラヴレターを出した明恵上人のように、「自体即ち国土身」である島(その総体である大八島)への〈玉振り〉をしなければならないのである。
12月22日の午後10時22分から、わたしは東京・二番町のT家の、3年に一度の大祭に参加し、23日の午前1時半過ぎ、麹町会館へ泊まったが、23日午前9時過ぎ、赤坂の日枝神社を参拝した。神職が唱える祝詞が聞こえてきたので、最初は朝拝かと思ったら、神職がずらりと並んでいるので、すぐ大祭規模の祭りであることがわかった。昔風にいうならば、天長節の神事だったのである。伶人が奏でる“君が代”に合わせて神職が二度、唱和し、そのあと舞姫によって“浦安の舞い”が奉納された。神職10名、巫女2名、伶人4名、舞姫4名による厳かな祭典であった。これを見守ったのは、氏子か崇敬者の代表1名と、わたしと同行者の2名の、いうならばギャラリーはたったの3人だけだったが、今上陛下の誕生日が冬至の翌日ということに、わたしは意味を見出した。古代の鎮魂祭は、太陽の化身である天照大神の皇孫命(すめみまのみこと)の玉体の霊力の復活を祈って、日光の力が弱まる冬至の頃に行われたが、皇居を鎮護する日枝神社の天長節の祭りにはそれ自体にタマフリの意味合いがあるということがわかった。
しかし、古代の鎮魂祭には、生嶋御巫(いくしまのみかんなぎ)が奉斎した「八十島祭」のように、明恵上人風にいえば、「自体即ち国土身」としての島々の島魂へのタマフリが不可欠だった。すなわち、玉体と国体(島々)へのタマフリである。霜月の寒さで、そのことが体感できた、と思っています。
皆様、自己のタマフリをされて、よいお年をお迎えください。
(h.17n 12gt 28nt)
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