目 次
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フーテンの寅さん所縁の柴又は、正倉院御物「養老五年(721)下総国葛餝郡 大嶋郷戸籍」の「嶋俣里」に発します
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島を意味する諸言語の表
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少子化・人口減の原因は市町村合併による村潰し・島潰しにあり
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オロロン鳥は悲しく啼き、そして浅之助は…!
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政治の季節と地方という霊性 ーもちろん島からの視点ー
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<硫黄島>の呼称変更への疑義
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野本三吉著『海と島の思想―琉球弧45島フィールドノート』(現代書館、2007年)を読んで
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再び「佐々木卯之助砲術稽古場」について
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再び川崎市・市ノ坪の「鬼ヶ島」について
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〈島〉という聖域が危うくされている
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フーテンの寅さん所縁の柴又は、正倉院御物「養老五年(721)下総国葛餝郡 大嶋郷戸籍」の「嶋俣里」に発します
2006.05.01
下総国葛飾郡大島郷という地名は、かなり前から知っていた。その名を初めて知ったのは、和歌森太郎の『国史における協同体の研究 上巻―族縁協同体―』(昭和21年)を『和歌森太郎著作集 第1巻』(弘文堂、昭和55年)で読んだときのことだ。もう、ずいぶん昔のことになるが、その頃はすでに《オウ(ノ)シマ》の研究を始めていたものの、故・和歌森氏の著作にはその所在についての記述がなかったこともあって、おそらく千葉県市川市の辺りのことだろう、と勝手に思い込んで通り過ぎてしまった。
数年前の暮のこと、池上図書館へ返本・借本に出掛けると、リサイクル・コーナーにA4判で上・下巻合わせて2,600ページ以上にもなる『葛飾区史』が置いてあった。何か役に立つこともあるだろうと、ひじょうに重かったけれども、予定していた借本もしないで、たしか小雨の中、しっかり抱えて帰った。長らくツンドク状態だったが、今年に入って偶然ページを開くと、その上巻の176ページから256ページまでが正倉院御物「養老五年下総国葛餝郡大嶋郷戸籍」の記述にあてられていた。しかも大嶋郷1,191人中612人の名前・年齢などが記載されている、ひじょうに重要な史料だったのである。その『葛飾区史』の中に、現在の「柴又」が室町中期の応永5年(1398)の時点では「島俣」とよばれていたという事実が記されていた。
『区史』所載の『大島郷戸籍』を見ると、大島郷には甲和里(かわわり)・仲村里(なかむらり)・嶋俣里(しままたり)という三つの里(邑=村)があった。戸数と人口は、甲和里が44戸、454人(男189人、女265人)、仲村里が44戸、367人(男155人、女212人)、嶋俣里が42戸、370人(男165人、女205人)となっている(『区史』246ページ)。しかし、なぜか和歌森氏は「下総国葛飾郡の大島郷が三里(コザト)を併せてまさに五十五戸より成つてゐる」(前掲書55ページ)と記している。
『区史』にもあるように、柴又が養老5年下総国葛飾郡大島郷戸籍の嶋俣であることが確定したことによって、大島郷の所在地が明確になったわけである。すなわち、シママタの「シマ」が「シバ」へと音韻変化したことが確認されたことになる。その過程で、柴俣・柴亦・芝亦・芝又など、いろいろの表記がされて、現在の柴又になったわけである。
いっぽう、甲和里は「小岩」に比定されている。この甲和の語源はカハ(川・河)ワ(輪)と考えられている。すなわち、四方を川によって輪のように囲まれた地形である。おそらく、[kahawaカハワ]→[kaawaカアア]と音韻変化し、[aw]が[au]から[ou]へ、あるいは[o]の重母音となって、[ko:aコーア ]となり、その「コーア」の[a]の前に再び[w]が付いて[ko:waコーワ]となり、そうした音韻変化の過程のどこかでウムラウト化が生じて「コイワ」に転じたものと思われる。ただし、コイワに「小岩」の漢字があてられるようになったのは、西側に隣接する地名でもある立石(たていし)の、古代の「立石」信仰が影響していると考えられる。ちなみに、八丈島や青ヶ島のイシバ(石場)にも、立石の「立石」とは若干、形態を異にするが、立石(りっせき)信仰がある。
また、仲村里は水元周辺のことであろうと考えられている。いずれにせよ、古江戸湾が深く湾入していた古代の大島郷は、その名のとおり「大島」であったと想像できる。実際、葛飾区には江戸川・中川・荒川が流れており、古代はそれらがもっと複雑に絡み合った、まさに、甲和(小岩)は「川輪」の島であり、嶋俣(柴又)は川の流れが複数に分かれた「島」「俣」の地であったろうことが彷彿とされる。
柴又八幡神社境内の島俣塚
島俣塚の下にはかつて石室があった
京成柴又駅のすぐ近くの葛飾区柴又3−30−24の柴又八幡神社の社殿の裏手には、発掘された竪穴式石室を利用した、“嶋俣”発祥の地を記念する“島俣塚”がある。帝釈天こと日蓮宗・題経寺の賑わいに比べると、参拝者は誰もいないが、過日、そこを参拝すると、そのご利益か、古江戸湾の島々がわたしの頭の中で急浮上してきた。
日本離島センターのかつての所在地は明治以降の大埋立で出現した「築島」の“月島”(中央区晴海3丁目)だったが、現在の所在地の千代田区永田町はまさに江戸湾に浮かぶ島だった。自民党本部とは「スープの冷めない」ご近所の関係だが、この永田町は「武蔵国豊島郡」の地域に入る。古江戸湾が深く湾入していた頃は、豊島郡はまさに、その名のとおり、島だったのである。その豊島(トヨシマ、古くはテシマ)の名は今でも豊島区(としまく)として残っているが、テシマとはタ(多)島の義である。すなわち、日本離島センターのある永田町は、古江戸湾に浮かぶたくさんの島々のひとつだったのである。
話がそれたが、大島郷戸籍の姓氏のほとんど(85%)は孔王部(あなほべ)である。『区史』は「孔王部とは五世紀のころ倭の五王の一人、興(こう)すなわち穴穂(安康)天皇の部(べ)である」という青木和男氏の説を採っているが、わたしは文字どおり、穴を掘ってきた人たちではなかったかと考えている。それというのも、その周辺では、土師器がかなり発掘されており、甲和(川輪)・嶋俣という地名を考えると、土器作りには最適の、荒川水系や利根川水系が運んできた良質の土が採れたのではないかと思われる。さらに、上流地帯の秩父には鉄鉱山もあった。
江戸川の向こう側が葛飾柴又(松戸市側から)
柴又の帝釈天を参拝したあと、「矢切の渡し」で100円を払って渡船に乗り、千葉県松戸市側に出て、伊藤左千夫の『野菊の墓』ゆかりの「野菊の道」を歩いたが、江戸川を越えたばかりの畑のところで金糞を拾った。砂鉄も採れたにちがいないのである。おそらく、大島郷の孔王部の人びとは蹈鞴もやっていたのではあるまいか。もちろん、洪水の危機には絶えずさらされてきたが、大島郷が農業に適していたのは言うまでもない。
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