目 次
01 生国魂(いくたま)
02 伊豆諸島という呼称の変更の問題について
03 カクレ青ヶ島ファンだった高円宮憲仁親王殿下の薨去を、こころから哀悼いたします
04 伊豆七島と伊豆諸島
05 《特定外周領域》の淵源とその系譜 ――ひとつの試論のための荒削りの素描――
06 ペリーの浦賀来航と沖縄、小笠原諸島、そして林子平の関係
07 ジル・ドゥルーズの《無人島》を読んでの心覚え
08 御蔵島という島名の中のクラという語の意味
09 尖閣、竹島、北方四島の問題――再び《特定外周領域》について――
10 伊豆七島は静岡県だったんですよ ー ある歴史学者はかく語りき ー
11 青ヶ島で国民年金の担当をしていた頃
12 宗像の津加計志神社と織幡神社を参拝して
13 国会議員および島を愛する全ての人へのお願い
14 公職選挙法施行令(昭和25年5月1日施行)第147条について
15 イザヤ書における「島々」の意味―世界史の交差点としての島々―
16 旧暦の霜月の寒さでタマフリの必要性を感じたこと
17 幻の鬼ヶ島(神奈川県川崎市中原区市ノ坪)を探しに行く
18 大田区の旧・鵜ノ木村の飛地・沖島(奥島)について
19 聖性と賤性が交錯するシマとしての窟
20 玉川弁財天と要島 ― 江戸時代の「水母なす漂へる島」を修理固成した要石の役割 ―
21に続く
04 伊豆七島と伊豆諸島
2002.12.10
 
 大島・利島・新島・神津島・三宅島・御蔵島・八丈島を総称して“伊豆七島”と呼んでいる。この伊豆七島という呼称は江戸時代、徳川幕府の<島地>支配の中で成立したものである。とうぜん、それは地理的概念であるが、それ以上に政治的概念でもある。わたしたちは、まず、このことを念頭に置かなければならないだろう。というのも、この“伊豆七島”からは、式根島・八丈小島・青ヶ島という三つの島々が除外されているからである。
 その中の式根島は、かつて新島と陸続きだったという伝承があり、昔から新島とは一体の関係だった、ということで除外されてきた。それにもかかわらず、昭和48年ごろ、新島との格差に憤慨した式根島青年団は、新島本村(現在は新島村)からの“独立”を夢見て、青ヶ島青年団にその支援要請の手紙を送ってきたことがある。やはり彼らも、自分たちは“伊豆七島”から疎外されている、という意識を持っていたのである。なにしろ当時、利島村・御蔵島村・青ヶ島村の三村は、いずれも人口200名を少し割った形での横一線状態で、一島規模では式根島のほうが人口は多かったのである。そうした背景のもとに、“独立”の願望が生じてきたらしいのである。
 ところで現在、国は市町村合併を推進させようとしているが、昭和29年にも町村合併の促進政策があった。そのとき、東京都八丈支庁管内の村々に対しても“行政指導”の形での“合併”案が示された。こうして、昭和29年10月1日、八丈島の三根・樫立・中之郷・末吉と、八丈小島の鳥打の5ヵ村が合併して八丈村となり、さらに昭和30年4月1日、この八丈村と大賀郷(八丈島)、小島の宇津木村が合併してこんにちの八丈町が成立した。
 八丈小島の場合、この合併が昭和44年の無人島化への引き金となった。さらに、宇津木村の場合は、我国では唯一の直接民主制村政の挫折でもあった。というのは、八丈小島の両村は、戦後の地方自治法の施行によって、昭和22年10月、初めて村制を施行したが、宇津木村は人口が50名前後だったことから、地方自治法第94条の特例で議会を置かず、20歳以上の選挙権を有する者の総会で議決をする、という直接民主制の村だったのである。しかし、合併14〜15年後の昭和44年6月(事実上は3月31日)、八丈島への“集団移転”が適用されて無人島化してしまったのである。ちなみに、八丈小島が無人島化したのも、“伊豆七島”に入っていないことで、八丈島との格差が合併後ますます開いたことに原因がある、といわれている。
 青ヶ島の場合、村制施行は昭和15年4月1日と八丈小島より7年も早かったのに、昭和31年7月8日の参議院議員選挙の時まで、国・都レベルでの選挙権を奪われていた、という歴史的事実がある。すなわち、公職選挙法施行令第147条の「東京都八丈支庁管内の青ヶ島村においては、衆議院議員、参議院議員、東京都の議会の議員若しくは長又は教育委員会の委員の選挙は、当分の間、これを行わない」という、じつに差別的な規定によって、日本国憲法が保障した選挙権が一方的に奪われていたのである。いいかえれば、昭和31年まで、青ヶ島の人びとは日本国公認の“半人前以下”の日本国民だったわけである。
 この言語道断の、憲法違反の、差別的規程の存在に気が付いた国地(クニ)の新聞記者が、昭和28年ごろ、当時の東京2区選出の衆議院議員と、伊豆七島選出の都議会議員へ「伊豆七島の青ヶ島では…」と電話をしたところ、「自分の選挙区の伊豆七島に青ヶ島というのはない」と一蹴されてしまったという、ちょっと信じられないような実話がある。
 というわけで、“伊豆七島”という地理的=政治的概念の“差別性”が理解していただけたか、と思う。そして、昭和の“大合併”のとき、青ヶ島が八丈町の成立に参加しなかったのは、じつは、国・都からその存在まで忘れられていたからだ、という説もある。しかし、参加しなかったことで“無人島化”を回避できたことで、のち、八丈小島の元住民からはうらやましがられたことも事実である。
 それはさておき、こうした傾向は今なお続いている。それは、観光パンフに顕著にみえている。“伊豆七島”と記された観光パンフから青ヶ島は絶対的に除外されているのである。ちなみに、東京都の外郭団体に「伊豆七島観光連盟」という団体があって、青ヶ島村もいちおう、そのメンバーになっているものの、同団体は青ヶ島にはほとんど目をむけてくれないのである、それどころか、三宅島が全島避難で平成12年国調で「人口ゼロ」になるまで、“伊豆七島”に入っている利島や御蔵島でさえ、ほとんど相手にして貰えなかったのである。わたしが助役をしていたころ、利島や御蔵島の村長は、「七島観光連盟なんていらないよ」と言っていたものだ。
 ところで、わたしは青ヶ島村助役在任中の平成3年11月11日付で『伊豆七島池田兄弟会の「伊豆七島」という名称の「伊豆諸島」への変更のお願いについて』という文書(青ヶ島村の公文書)を、当時の創価学会青年部長正木正明氏宛てに送付したことがある。その文書はその後、創価学会の内部を転々としているうちに“消失”してしまったらしく、わたし自身もほとんど忘れてしまったが、平成9年ごろ「伊豆七島池田兄弟会」という名称がまだ存続していることに気が付き、平成10年3月13日、創価学会会長の秋谷栄之助氏へ個人的(公人ではないという意味)に手紙を出したところ、3月24日、創価学会広報室から青ヶ島村とわたしにたいし「創価学会では、今後、伊豆七島という表記をあらため、『伊豆諸島』という名称に変更していく」という内容の“お詫び”の手紙が寄せられた。ちなみに、創価学会では、若干の紆余曲折を経て、その年の暮れまでには、下部組織における“伊豆七島”は完全に撤廃され“伊豆諸島”へと変更された。
 しかし、七島観光連盟や、ジャーナリズムの一部では、今もなお、“伊豆七島”という表記を使用し、“青ヶ島”を除外し続けているのである。
 なお、“伊豆七島”自体―この場合、除外3島も含まれる―も、じつは、ある意味では、沖縄・奄美・トカラ(下七島)・竹島・尖閣諸島・小笠原諸島・いわゆる北方領土・樺太と同じ位相に置かれていた、ということについては、いずれまた別の機会に提示してみたい、と思っている。そうすれば、“伊豆七島”と“伊豆諸島”という、たった一字違いの表記上の問題が、じつは、青ヶ島だけの問題ではなく、明治以降の日本(将来も含めて)を考えていく時の、ひじょうに重要な問題だった、ということがわかってくるだろう。
 
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