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15 イザヤ書における「島々」の意味 ―世界史の交差点としての島々― |
2005.09.01
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当然ことであるかもしれないが、四面を海に囲まれた我国の記紀神話を眺めると、島の記述がしばしば登場する。しかし、オリエントの乾燥地帯を舞台とする『聖書』には、記紀と比べると、はるかに島の記述が少ない。
ところが、旧約『イザヤ書』の、とくに、第二イザヤ(イザヤ書40〜55章の著者と考えられている紀元前6世紀後半の無名の預言者)の部分だけは、つぎのように、八ヵ所も「島」というコトバが出てくる。以下、それらを文語訳『聖書』から列挙してみよう。
(1) 権衡(はかり)のちりのごとく思いたまふ島々はたちのぼる塵埃(ほこり)のごとし(40・15)
(2) もろもろの島よわがまへに黙せ(41・1)
(3)もろもろの島はこれを見ておそれ(41・5)
(4) もろもろの島はその法言(をしえ)をまちのぞむべし(42・4)
(5)海にうかぶもの 海のなかに充るもの もろもろの島およびその民よ(42・10)
(6) 栄光をエホバにかうぶらせ 頌美(ほまれ)をもろもろの島にかたりつげよ(42・12)
(7) もろもろの河を島とし、池を涸(かう)かさん(42・15)
(8) もろもろのしまよ我にきけ 遠きところのもろもろの民よ耳をかたむけよ(49・1)
このうちの(7)の島は「陸地」の義だが、それ以外は「国」と同義である、といわれている。「島」を「国」と置き換えても意味は変わらない。すなわち、イザヤ書は詩篇にも通じる詩魂の躍動がみられるから「国」を「島」と言い換えた、というわけである。しかし、第二イザヤの「島々」が現実の島ではない、と言えないのではあるまいか。
たとえば、(1)の「島々」は、エーゲ海あたりの現実の島々を見た光景を彷彿とさせる表現である。もちろん、「島々」が「国々」の義である可能性はあるが、砂漠の中でまだ見ぬ異邦を想像するのはむつかしいことではないか、と思われる。そのとき現実の島々は、異邦の国々を詩的に直観させてくれる。近くに見える島々、遠くに見える島々、遠すぎて何もかもボヤッとしているけれど、おそらく確実に存在するであろう島々。第二イザヤは現実の島を見たからこそ、「島」と書いたのではないだろうか。
この第二イザヤは、異邦人への伝道についても言及している。そのことからも、島が現実の島であった可能性は大きい。また、第二イザヤは自らを「油を塗られた者」と規定している。すなわち、第二イザヤという「旧約」世界の預言者にはイエス的要素とパウロ的要素が混在していた、ということができる。
つまり、第二イザヤは、現実の島々を見ることによって、異邦人の住む国々への伝道を夢見、当時の全「世界」である島々と国々にたいする伝道の必要性という、世界史的視座を獲得したのではないか、と考えられる。すなわち、イザヤ書における島々は「辺境」としてのそれではなく、世界史の交差点としての「島々」だった。第二イザヤが幻視した「島々」も、こうした世界史的視座を持った「島々」であったにちがいない。
(『宗教新聞』平成13年9月5日号掲載)
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