目 次
01 生国魂(いくたま)
02 伊豆諸島という呼称の変更の問題について
03 カクレ青ヶ島ファンだった高円宮憲仁親王殿下の薨去を、こころから哀悼いたします
04 伊豆七島と伊豆諸島
05 《特定外周領域》の淵源とその系譜 ――ひとつの試論のための荒削りの素描――
06 ペリーの浦賀来航と沖縄、小笠原諸島、そして林子平の関係
07 ジル・ドゥルーズの《無人島》を読んでの心覚え
08 御蔵島という島名の中のクラという語の意味
09 尖閣、竹島、北方四島の問題――再び《特定外周領域》について――
10 伊豆七島は静岡県だったんですよ ー ある歴史学者はかく語りき ー
11 青ヶ島で国民年金の担当をしていた頃
12 宗像の津加計志神社と織幡神社を参拝して
13 国会議員および島を愛する全ての人へのお願い
14 公職選挙法施行令(昭和25年5月1日施行)第147条について
15 イザヤ書における「島々」の意味―世界史の交差点としての島々―
16 旧暦の霜月の寒さでタマフリの必要性を感じたこと
17 幻の鬼ヶ島(神奈川県川崎市中原区市ノ坪)を探しに行く
18 大田区の旧・鵜ノ木村の飛地・沖島(奥島)について
19 聖性と賤性が交錯するシマとしての窟
20 玉川弁財天と要島 ― 江戸時代の「水母なす漂へる島」を修理固成した要石の役割 ―
21に続く
03 カクレ青ヶ島ファンだった高円宮憲仁親王殿下の薨去を、こころから哀悼いたします
2002.11.22
 
 高円宮憲仁親王殿下が11月21日夜、薨去された。宮さまは、カクレ青ヶ島ファンでもあった。殿下の、「青ヶ島へ妻と一緒に出かけて1泊したい」という10年来の“希望”を実現することができず、とても悔しいし、とても悲しい。
 高円宮さまに、わたしは二度、お目にかかったことがある。一度目は青ヶ島村助役在任中の平成5年1月28日のことで、場所は新潟県十日町市大池のミティーラ美術館。廃校となった小学校(立正佼成会の庭野日敬開祖の母校)の校舎をそのまま利用した美術館で、その名のとおりインドのミティーラ画を収集・展示している。その美術館の長谷川時夫館長プロデュースの、日印国交樹立40周年記念《インド古典音楽(ターガル家)現代舞踊団(ママタ・シャンカール)公演》が平成4年、全国各地で開かれたが、その日はそれに関係した人々の集まりだった。
 高円宮さまは「きょう、ここに、お集まりの方々は、全員が長谷川さんに騙された人たちばかりで…」と挨拶され、大爆笑のうちに打ち解けることができた。宴が進む中、長谷川さんの手招きで、宮さまへ挨拶に伺うと、殿下は「夏に青ヶ島へうかがうつもりでいたのですよ。ぼくは非公式の、お忍びの形でもいいんです。妻と一緒に一晩、泊めていただければ、それでいいんです」と仰せられた。その脇にいた長谷川さんが「お子さんも一緒に連れて行ったら」というと、妃殿下も微笑んでおられた。
 《インド古典音楽・現代舞踊団青ヶ島公演》は、平成4年8月25日夜、盛大に開かれた。外国人26名を含め、24日から26日までの3日間、約200名の青ヶ島の人口はほぼ倍増した。英語版の青ヶ島パンフレットも製作し、国際交流という点でも、とても大きな成果が得られた。このとき、プロデュサーの長谷川さんは、奥さんと3歳ぐらいの男の子と来島したが、親から離れたことがない甘えん坊の、長谷川さんの子どもは青ヶ島保育所に1日入園し、「ここで、ずっと遊びたい」と言うほど青ヶ島を気に入ってくれた。
 お父さんの長谷川さんは、打ち合わせのため、事前に二度来島し、すでに青ヶ島ファンになっていた。それで、高円宮さまに対して《青ヶ島は良いところだ》と“騙そう”とし、宮さまもすっかりその気になられていたわけである。
そして、それを受けて、青ヶ島村長も何度か宮邸を訪問し、宮務官と打ち合わせをした。ところが、東京都知事室が警備上の問題点から強く抵抗し、結局、ご破算になったという経緯があった。そういう文脈での、高円宮さまとの会話だったのである。
 わたしは、高円宮さまのお言葉を聞いてから、宮の“希望”を叶えたいと思って、平成5年の春ごろ、知事室に掛け合った。しかし、話は進展しなかった。そして、その年の7月12日夜に発生し、奥尻島に大きな被害を与えた“北海道南西沖地震”(M7.8)をめぐる青ヶ島村の“姿勢”に“抗議”して辞任した。
 その年の暮、長谷川さんに特に騙された人々に対する、長谷川さん主催の慰労会が港区内で開かれた。さらに、そのうちの数名が、高円宮さまと、浅草生まれの長谷川さん行き付けの浅草のバーへ出かけた。ちなみに、そこは、わたしの母が生まれた家と200メートルも離れていない場所だった。そのバーで、高円宮殿下はカラオケに興じられたが、水割りを飲まれながら宮さまは何度も「妻と一緒に青ヶ島へ行きたい」と申されたのである。
 高円宮殿下の最初の青ヶ島ご訪問の話が出てちょうど10年目の今年、日印国交樹立50周年を迎えて、長谷川さんは新たな企画で10年前と同じく日本列島を縦断したが、人づてに高円宮さまが「青ヶ島のことは諦めていない。妻と一緒に行きたい」と申されている、という話が伝わってきた。そこで、わたしはイヴェントとは切り離した形で、高円宮殿下の意向を青ヶ島村に打診した。その返事が得られないまま、高円宮憲仁親王殿下は薨去されてしまったのである。
 高円宮殿下の御魂の幸の多からむことを祈るとともに、宮の御魂がこれからも青ヶ島ファンであられることを乞い願って…  
とほかみ ゑみため  拍手(忍び手)
           平成14年11月22日  菅田 正昭

 
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