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第38話 ぼくがシャニンになれたわけ |
2007.10.01
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青ヶ島ではシャニン(社人・舎人)・ミコ(巫女)になるためには、カミソウゼ(神奏(請)ぜ)という入信儀礼を通過しなければならない。誰もがすぐなれるかといえば、そうではなく、ミコケのあることが条件になる。ミコケというのはミコ(神子・巫女)ケ(気)のことで、その人が先天的、あるいは後天的に持つようになったと推定される、ある種の神から選ばれた霊的体質のことである。だが、どんなにミコケが強くても、一度でカミソウゼに合格できるかといえば、何度目かにようやくという場合もある。女性マルチタレント篠原ともえさんの曾祖母の、かつて青ヶ島の最高巫女といわれた廣江のぶゑさん(一九〇二〜二〇〇一)は三度目のカミソウゼで合格したという。
男性の場合の卜部(社人の中から家系を勘案して選ばれる)・社人も同様である。しかし、ごく稀にカミソウゼを経ないでも、シャニンになることができる。神事の下働きを手伝っているうちに、卜部から御幣の切り方や、その際の称え詞などを伝授されれば、晴れて社人ということになる。わたしの場合は、青ヶ島の神様に気に入られた、ということでシャニンの列に加えられた。
わたしが村役場に勤めるため青ヶ島に渡ったのは昭和四十六年五月十日のことである。その数日前、東京・蒲田の書店で偶然、大間知篤三、金山正好・坪井洋文の『写真 八丈島』(角川文庫、昭和四十一年)という本を手に入れて、渡島の前にすでに読んでいた。そこには、恐山のイタコや、沖縄のユタのように、神懸かりする巫女が青ヶ島にいることが書かれていた。青ヶ島で最初の晩、宿のおばさんにそのことを恐る恐る質ねてみたところ、「まは、そごん人はてっつもなっけふうだらら」ということであった。おばさんは嘘つきだった。十ヵ月後、わたしが<拝み仲間>の一員になると、もちろん、おばさんは巫女の一人だったのである。ちなみに、そのおばさんとは、前村長の佐々木宏さんのお母さんのキクミさんで、おばさんはわたしの母や女房の母、そして島で生まれた長男の面倒を一時期みてもらった廣江八千代さんと同じく大正五年の生まれである。
とにかく、わたしはおばさんの「今は、そういう人は少しもいないようですよ」と言葉を信じて、巫女探しをしなかった。その代わり、役場が休みのときは神社や、石積みのイシバと呼ばれる聖所を訪ねては、苔やマメヅタが付着した祠や石を持ち上げたりひっくり返したりして独りで遊んだ。当時は美濃部都政の時代だったが、美濃部知事にあやかって石のカミガミと「対話」をしたのである。というよりも、マルティン・ブーバー(一八七八〜一九六五)の『我と汝』における「人と人、人と神」との“対話”の宗教哲学を、青ヶ島のカミガミの前で実践した。おそらく、そんなことから霊感が開発されたのかもしれない。
昭和四十六年十一月八日(土)のことだった。午前中で役場が退けたあと、午後、渡海神社へ参拝した。その翌日、廣江次平さん(一九〇三〜八九)がわが家を訪ねてきた。わたしがきのう、渡海神社へ参拝しなかったか、を確認にし来られたのである。
この渡海神社はチョーヤ(廰屋=神の声を聞く場=の義、社殿)のないイシバだけの神社だったが、当時はその神域の周りが鉄条網で囲まれ、しかもそれを隠すように竹藪で覆われていて、じつは、まったく内側には入れない状態になっていた。その竹藪が渡海神社であることを知らないかぎり、たんなる竹藪にしかみえない状態になっていたのである。わたしにとって、渡海神社はまさに未踏の神社だったのである。
その日、わたしは絶対に、この辺りに渡海神社があるはずだ、と考えてやってきた。十一月も初旬を過ぎる冬枯れの頃になると、草木の勢いも若干弱くなる。竹藪の隙間からイシバのようなものが見え隠れする場所があったのである。そして、その近くに鉄条網が切られたところもあった。そこから入り込むと、かなり立派なイシバがあり、祠の中には「渡海様」と彫られたのもあり、そこがずっと探していた渡海神社であることがわかった。そして、わたしは持参した線香と蝋燭で参拝したのである。青ヶ島では明治初年の神仏分離以前の信仰が残っていて、蝋燭を燈し、その火を線香にうつしてお祈りするのである。そうした風があることは、神社やイシバめぐりをしている中で、その燃え残りの痕跡から自然とわかったことだった。
廣江次平さんによれば、きのう(旧暦九月二十一日)がトカイサマの、本来の例祭日だったという。ところが、もう数年前からイシバに立ち入ることもできない状態になっていて、そのため参拝ができず、神様に対して心苦しかったという。朝、廣江のぶえさんが次平さんの家にやってきて、神様に怒られるからと、奥さんの静江さんと三人で出かけたら、どうもきのうあたり参拝にきている人がいる。シャニン・ミコの仲間に問い合わせてみたところ、「菅田さんらしい」というので確認に来たというのだ。そして、きのうがよく祭りの日であることがわかった、と褒められた。じつは、まったくの偶然だった。
そして、年末の十二月二十五日(火)、わたしは大里神社の「下の石場」へ出かけて、五寸釘で作った刀子を奉納した。二十三日(日)、突然、五寸釘を叩きたくなり、七輪に炭を熾して五寸釘を入れ、それを鍛えて小さな刀を作った。それをヤスリと砥石で磨き、柄の部分には紐を巻いたものを、イシバにあるカミサマの前に適当に差し込んできたのである。そして、その翌日、また廣江次平さんがやってきた。
じつは、その年の十二月二十五日は、旧暦の十一月八日のオボシナ祭りの日であるというのである。正しくはカナヤマ祭りといい、この日、金山様を祀っている家ではカナヤマ祭りを、シャニンやミコでカナヤマサマをオボシナ(守護神の義で、語源はウブスナ=産土)としていない場合はオボシナ祭りをする。もちろん、カナヤマサマは鍛冶屋の神だが、鍛冶をやっていた家や、オボシナとしてカナヤマサマを祀っている家では、昔は刀子を作ってお祭りしたという。しかも大里神社の「下の石場」にはキダマサマ(木玉様)とか七首明神・三嶋様・縁談神・鼠神様…等々の、じつに夥しい神々が祀られているが、わたしはその中のカナヤマサマの祠の前に五寸釘の刀子を差し込んでいたのである。
これは全くの偶然性の所産だったが、かくて卜部の廣江次平さんと最高巫女の廣江のぶゑさんに認められて、カミソウゼ無しで社人の一員に加えられたのである。以来、昭和四十九年一月三十日に青ヶ島を離れるまで、年間約二十の神事に参加するようになった。ちなみに、島を離れる数日前、次平さんに神子ノ浦で拾ってきた石に神様を籠めていただいたが、そのとき、わたしが「ぼくのオボシナサマって、テンニハヤムシサマ(天野早耳者様)とカナヤマサマでしょう」と訊ねると、「自分のオボシナサマがわかる人はそう多くはない」と褒めていただいた。そのとき籠めていただいた石は今も東京・大田区のわが家の庭のイシバに祀られている。
なお、本稿は全国離島振興推進員連絡会(略称「全推連」)の機関誌『若潮』41 March.2007
(平成19年3月31日発行)に掲載されたものです。
※「全推連」とは何か(pdf)
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