目 次
第29話
第30話 青ヶ島のニカイゾウリ
第31話 再び青ヶ島のニカイジョーリについて
第32話 獲らぬ狸の人口300人構想の一瞬の現実性の白昼夢の輝き
第33話 一枚の写真の記憶
第34話 買ってはいけない!宝島社の『ニッポン「不思議島」異聞』
第35話 新しい“無集配局”時代の郵止ピアが到来か?
第36話 通れなくなっていた槍ノ坂、会えなかったハンブン・カミサマ
番外 13年半ぶりの青ヶ島
第37話 フン嗅(くさ)、フークサ、フーンクサ
― 青ヶ島の節分の厄払い神事 ―
第38話 僕がシャニンになれたわけ
第39話 オトリサマ(お酉様)の祭りのトウショウジガミ
第40話 チョンコメ、青ヶ島バター、青かびバームクーヘン
第41話
第30話 青ヶ島のニカイゾウリ
2005.12.30
 

 八丈ショメ節に「南風だよ みな出て おじゃれ 迎え草履(ぞうり)の紅鼻緒(べにはなお)」というのがある。この歌詞は、徐福伝説に為朝伝説が接木された八丈独特の女護ヶ島(にょごがしま)伝説に由来するものである。すなわち、年に一度、南風が吹くころになると、女護ヶ島(八丈島)の女たちは、草履を作り、その鼻緒に思い思いの標(しるし)を付けて浜辺に並べておいた。
 その民譚によれば、南風が吹くと、男ヶ島(おんがしま、青ヶ島)から男たちが風に乗って船で渡って来る。女童(めならべ)は自分の標のある草履を履いた男と一夜の契りを結び、子どもが生まれると女児は島にとどめ、男児だと3歳までは母親のもとで養育したあと、男ヶ島の父親のもとへ送る。男女が二つの島に別れて住むようになったのは、同居すると、海神の祟りがある、といわれてきたからである。その悪習を改めさせたのが源為朝で、女護ヶ島と男ヶ島の人々の祖先は、方士徐福と共に蓬莱の不老不死の薬草を求めて秦を旅立ち、紀州の沖で漂流し、青ヶ島に漂着した男船500人と、八丈島に漂着した女船500人であるという。
 男ヶ島の男たちは、標の付いた「迎え草履」を、その後、どうしたのであろうか。それに関する後日談のような民話が、青ヶ島にはないのだろうか、と思っていた。そんなある日、青ヶ島の古老・菊池梅吉翁(平成2年、あと1ヵ月で100歳で逝去)が「女童が好きな男に贈る二階建ての草履があろわよ」と教えてくれた。昭和47〜48年ごろのことである。
 梅吉さんの傍に寄り添うようにしていた老夫人のきみかさんに「梅吉さんにも贈ったのですか」と訊ねると、「あが作りほう知りんのうて…」と、はにかみながら逃げられてしまった。そこで、何人かの作れそうな島生まれのバイちゃんらにきいてみた。その結果、当時、小学校の教員をしていた広江重子先生が作れるということがわかった。しかし、そのときは、そのままで終わってしまった。
 それから5〜7年後、そのころ秋葉原にあった日本観光文化研究所へ、たまたま顔を出したところ、宮本常一先生が居られた。そのとき、宮本先生が武蔵野美術大学の教授をされていたころ、構内にあった日本常民文化研究所(渋沢敬三が1921年に創立したアチック・ミューゼアム・ソサェティがその前身。現在は神奈川大学の研究所)の所員をしていた潮田鉄雄さん(はきもの研究家)の話題が出た。宮本先生が「潮田さんが今度、広島県福山市に創立された“日本はきもの博物館”の主任学芸員として赴任した」というので、梅吉さんから聞いた青ヶ島の“二階建ての草履”の話を思い出し、その話をしたら、とても喜んでくれて、宮本先生から潮田さんへその話が伝えられたのである。


 こうして、たしか就任したばかりの山田常道村長に電話して、重子先生に作っていただき、青ヶ島村役場から博物館へ送ったのである。わたしがそれを実際に見たのは昭和55年の5月か6月のころのことで、仕事(当時、ガソリンスタンドの取材をしていた)で広島へ出かけたついでに立ち寄ったものだと思う。そこには、「娘が若者へ婚約の約として贈る二階建て草履で、男女が一緒になることを表す」という解説付きで、青ヶ島の“ニカイゾウリ(婚約の草履)”が展示されていた。
 日本はきもの博物館(広島県福山市松永町4−16−27、電話084−934−6644)には国の重要文化財も含めて、日本と世界の履物がひじょうに多く展示されているが、この“ニカイゾウリ”は今日も常設展示されている。
 詳しくは、http://www.footandtoy.jp/hkannaimap.htmlの「信仰・行事とはきもの」の項をご覧ください。


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