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番外・でいらほん通信拾遺
13年半ぶりの青ヶ島 |
2007.02.03
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平成5年7月末に青ヶ島を離れて、ちょうど13年半ぶりとなる1月24日(水)〜26日(金)、アリオン音楽財団の飯田一夫氏と僅か48時間と5分の滞在時間でしたが、青ヶ島を訪ねました。ことし7月に同財団が開催を予定している第23回<東京の夏>音楽祭「青ヶ島の芸能と祭文」(仮称)の実現を期して、関係者への挨拶とお願いをするためです。そのことについては現在進行形の事柄なので割愛することにし、駆け足で見て感じたことを述べてみたいと思います。
まず、役場周辺の環境がひじょうに様変わりしていたこと。わたしが辞めた時点ではなかった信号機が設置されていました。ちなみに、この青ヶ島唯一の信号機は児童・学童にたいする教育用で、わたしが助役時代に警視庁へ設置を要望していたもので辞任後、比較的間もなく取り付けられたと記憶しています。
誰が見ても豪華に見える小中学校の校舎は、本HPの管理人である吉田吉文氏が教育長の時代、直接、図面を見せられていましたし、竣工後はいろいろの人から写真を見せてもらっていたので、ある程度の想像はできていました。しかし、実際に見て、聞きしに優る建築物だと思いました。また、昨秋に完成した体育館も内部を見ていませんが、外観から判断するところ立派なものだと感じました。
わたしが助役時代には建物としてはまだ残っていた昭和50年代の初めまで使われていた旧校舎は取り壊され、そこに「総合福祉センター」的役割を持った“おじゃれ会館”ができていました。役場の正面玄関のほうから眺めると、昔は塔ノ坂方面が見えたのですが、この建物で視界が遮られ、少し圧迫感をおぼえました。また、かつての役場の裏側には、わたしが昭和46年5月から49年1月まで住んでいた住居があり、助役時代にはその残骸の痕跡もあったのですが、それはきれいに消えていました。
もちろん、変わったところ変わらないところ、いろいろとありました。いちばんの大変化は三宝港の変貌です。昭和46年5月10日、初めて青ヶ島へ上陸した日の“シャンバウ”の光景を想い起こすと、これが同じ島かと思えるほどの大変貌です。そして、三宝港は今なお刻々と変身中です。
ことしは暖冬ということもあるかもしれませんが、かつてはフユニシが強く吹いたあとの三宝港では、突堤に岩海苔がびっしり付きました。今はハンバ(岩海苔の一種で東京湾沿岸地域ではハバと呼ばれている)も拾えないようです。青ヶ島の島民は島でクジラヨと呼ぶ魚を好みますが、かつては三宝港の大三宝の岩場から磯釣りをすると、よく釣れたようです。しかし、最近はたまに掛っても昔の半分程度の大きさだといいます。島のあちこちでの崖崩れもあって、必ずしも三宝港の工事だけの影響とは言い切れないようですが、土砂の流失で海底の岩が埋まり海藻が付き難くなり、それを食べる磯付の魚が痩せたり、繁殖しにくくなくなったということがあるようです。
ところで、ヘリで着いた24日には飯田氏と長ノ凸部の金毘羅神社とそのイシバを参拝しましたが、翌日には土屋久さん(共立女子短期大学非常勤講師)が合流して東大所神社、大里神社を三人で参拝しました。急勾配の玉石の階段では往時のスピードは若干、失われましたが、それでも両人が玉石段の半分の距離まで来たときにはもう上まで着いていました。飯田さんによれば帰宅したら脚がバンバン腫れてしまったとのことでしたが、わたしの場合はそういうこともなく、足と身体が玉石段を憶えているといった感じでした。
過日の「でいらほん通信拾遺」(第36話)でも書きましたが、槍ノ坂の入口を入って池之沢のカルデラを見渡せる所にある炭焼きの神のスミヨシサマ(住吉が転じて炭良の義?)へも参りましたが、その場所へ行くにも実は一苦労でした。小枝が行く手を邪魔し、草が歩きづらくさせていたのですが、ありがたいことに明日葉がたくさん生えていて、その道々で摘まさせていただきました。そして、嬉しかったのはそのスミヨシサマに比較的、真新しい白い御幣が奉納されていたことでした。
そのあと大根ヶ山の神明宮のイシバにも参りましたが、当初、土屋氏は「ここは初めて」と言っていたのですが、来てみると「以前、キミ子ばあちゃんに連れられてここのカナヤマサマに来たことがあるが、その時は、ここにこんな立派なイシバが連なっていたことが判らなかった」と語っていたのが印象的でした。
厳密にいうと、イシバも刻々、変化しているようです。大里神社には下と上の二つのイシバがありますが、上のイシバの奥には奉納された祠があります。『青ヶ島の生活と文化』(1984年7月刊行)の「第4篇 伝統文化」の「第4章 宗教と信仰」はわたしが執筆したものですが、そこでは昭和48年12月までに奉納された9基の祠のすべてを紹介しました。たとえば、同書866ページの上から3行目には「天野早正神様(大正八年五月吉日・澄作ノ守護、小笠原中硫黄島・山下澄作建之)」とありますが、この祠は昭和48年、同人の遺族が廣江次平さんへ郵便小包で送ってきたものです。山下澄作(敬称略)のオボシナとして中硫黄島の山下家の庭(邸)石場(テイシバ)で祀られ、その後、集団疎開命令で祀っていた人とともに転出したあとも祀られていたものらしいが、本人の逝去後、祀る人が無くなり、澄作の本願の地である青ヶ島へと還ってきたわけである。次平さんと二人で納めに出かけたときのことを懐かしく思い出します。
おそらく、同じような運命を辿って新たな祠が帰還したのでしょうか、今回、昭和53年と記された祠もありました。時間がなく調べることができませんでしたが、9基だった祠が十数基以上へと増えている感じだった。また、下の石場も石(神)の配列が若干、移動しているようにも思えた。
ところで、金毘羅神社の八大竜王の碑のあるイシバには、以前は「鉾」状の石がひとつ無造作に置かれていた。平成4年のことだったと思うが、東京都か島嶼町村会の依頼で青ヶ島へ講演に来た、わたしの古い知人でもある民俗学者の神崎宣武さんを案内したとき、帰り際「金毘羅様の、あの石の鉾はどこからみても古代の鉾に見えます。役場か教育委員会で保存しておいたほうがいいですよ」と言われたことがある。平成5年7月26日の時点では存在していたのだが、今回、探してみたがまったく見当たらなかった。「変どう石どうじゃ」と思われて捨てられてしまったのか、あるいは、平成4年7月のヘリコミの試験飛行とともに大里神社のイシバの青銅鏡が一枚残らず消えてしまったのと同じように、だれかに持ち去られたのかもしれません。すなわち、一見、変化がないと思われているイシバの環境も刻々と変貌しているのです。
変化・変貌といえば、もちろん良い方向もある。八丈空港の土産物のコナーを覗くと、以前から特産品として知られている青酎のほか、ひんぎゃの塩、さらに、しまダレとか、ウコンなど、数々の産物が作られるようになってきている点だ。「青ヶ島はあんにもなっけ島だらら」というのが従来の島民の感覚だったが、日常の何気ないものがじつは島の文化を作り、都会の人びとはそういうものを求めている、ということにようやく気がつき始めたようです。
ちょっと残念だったのは、ヘリポートのあちこちに点在していた四葉のクローバーの群落が消滅していたことでした。かつて、わたしはその四つ葉のクローバーで手製の栞を作り、出張で役場へ顔を出した役所関係の人々や、一般の観光客など百人以上にお土産代わりに差し上げたことがあります。今回の訪島で20数名の方々と立ち話を含めてお会いすることができ、とても嬉しく思いました。平成5年7月、青ヶ島を離れるとき、もうすぐ2歳になる子がこの春、青ヶ島中学を卒業します。今浦島になった気分です。
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