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第36話 通れなくなっていた槍ノ坂、会えなかったハンブン・カミサマ |
2006.12.04
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「ハンブン・カミサマ」(筆者撮影、昭和48年)
集落のあるオカベ(岡部)から池之沢へ向かう近道として、昭和50年代の半ばまでは槍ノ坂が利用されてきた。この槍ノ坂は流坂(ながしざか)方向へ大里神社参道を越えた地点にその入口があり、今もあるかもしれないが、平成の初めにはその側には五洋建設の火薬倉庫が置かれていた。流坂道路もあったが、わたしの第一次在島時代(昭和46〜49年)は“ナガシ(流)”の地名に象徴されるように、少し雨が降ると土砂が流出したり、崖から落石があったりしてずっと交通止めになっていた。もちろん、当時、流坂を歩いたことは一度もなかった。その後、三宝港を経由して池之沢へ行ける道路ができてから、急速に寂れてしまった。さらに流坂道路が整備されると、それに拍車がかかり、平成3年、流坂トンネルが開通すると、その存在すら忘れられてしまうようになった。
平成2年9月、わたしは青ヶ島村の助役に就任した。青ヶ島は年がら年中、草木が生い茂っているが、11月も下旬を過ぎると、冬枯れとはいえないけれど、アジサイや竹笹の葉も若干は弱り始めてくる。就任早々の全島避難訓練のあの大騒動の余波も薄れ掛けたころの、フユニシが吹き始めた日曜日、役場から鎌を持ち出して槍ノ坂へと出かけてみた。槍ノ坂入口付近にあるスミヨシサマ(青ヶ島では住吉様が炭良様に通じることから炭焼きの神様として信仰されている)にローソクとお線香3本を捧げ、坂道を降り始めようとした。
ところが、ものの1分も経たないうちに断念せざるを得なかった。倒木が行く手をさえぎり、道がざっくり抉られていたのだ。道の真ん中に木が生えているところもあった。その後も在任中、玉嶋秀猛君などとチェーンソー持参で何度かアタックしてみたが、ハンブン神様までも行き着くことができなかった。ジャングル化なら鎌や鉈やチェーンソーで枝や木を切り払えば良いが、道があちこちで寸断されてまさに崖状態になっており、もう道とはいえない状態に劣悪化していたのである。
このハンブン・カミサマは槍ノ坂のほぼ中腹にあることから名付けられた神様で、たしか杉の古木の木株の根元に、山の尖った岩と海岸の丸石で作られた小さな石場があった。そこには沢山の木製や鉄製の小さな鳥居があり、徳利やサイダー壜や壺も置かれていて、いつも水が奉納されていた。わたしはこの前を通るときはローソクに火をつけ線香を奉納したり、時々は御幣も奉納し、何も持っていかなかったときは降りる途中で摘んだ虎杖(いたどり)の枝葉を捧げた。池之沢に畑を持つ家も多く、ハンブン・カミサマはまさに昼なお暗き険しい山道のほぼ真ん中にあったことから、ここを通るとき一休止する人が多かった。信仰心がそうない人でも、ここで水筒の水を飲んだり、ポケットの飴をしゃぶったりしたついでに、思い出したように手を合わせる人もいたのである。
わたしはいつの頃か、一週間に一度ぐらいの比率で池之沢へ出かけるようになっていた。というのも、当時、池之沢には80代の老夫婦(奥山利英さん夫婦)が現在のサウナのある場所の少し手前に住んでいたからである。老齢福祉年金やその他、高齢者関係を担当していたので、顔を出すことにしていたのである。ちなみに、その老夫婦の家は当時、青ヶ島では唯一の二階家だった。岡部は冬の季節風の影響を強く受けるが、四方を青ヶ島火山も外輪山で囲まれたカルデラ地帯の池之沢では風の影響をあまり受けなかったからである。
池之沢は天明の大噴火で形成された中央火口丘の丸山(223m)の周辺に地熱地帯があり、当時は冬季だけ池之沢で過ごす老人もいた。わたしが村の庶務民生係だったころは、お美恵バイが池之沢の石囲(岡部の防風目的の石垣=ヲリ=に似ている)に茅葺の住居の中でマグサに包まって寝ていたものである。わたしはその住居を「神武天皇のかりほの庵」を真似て「池之沢式かりほ住宅」と名付けたことがある。もちろん、その家は夜も地熱でポッカポカなのである。アシタバの栽培には適しなかったが、池之沢に畑を作る家もあって、槍ノ坂は結構使われていた。槍ノ坂の入口までバイクで来て歩いて槍ノ坂を下り、池之沢で畑仕事をしたのである。
槍ノ坂の上り下りの時間はもちろん、その人の体力によるが、ふつう下りに20分、上りに30分以上を要した。高低差は300メートル近くもあり、まさに昼なお暗き険しい坂道だった。わたしは下りに10分以内、上りに15分で上った。しかし、慣れない人だと上りに小1時間を要してしまう人も多かった。ハンブン・カミサマは下りの場合も、上りの場合も険しい坂道の半分という一つの目安であり、ほっとする中休みの地だったのである。そういうことから、ハンブン・カミサマにはしばしば手向け草が奉納されていた。その手向け草の種類や、草木の折り方(切り方)で今だれが池之沢にいるか、ということまでわかるようになった。それをメモっていればよかったと悔やまれる。
ハンブン・カミサマはイシバの神であり、青ヶ島の概念ではトーゲサマの一種である。槍ノ坂天狗が祀られているともいわれていたが、詳しくはわからない。いずれにせよ坂神であり、峠神である。さらに、ハンブン・カミサマ、槍ノ坂天狗という名から、坂神特有の妖気も発散する。ハンブン・カミサマ、槍ノ坂天狗に「だまされた」り「バカにされた」という類の話もある。じっさい、私じしんも一種の「時間観念の喪失」という奇異を槍ノ坂で経験したことがある。夏の暑さの上りの熱中症気味ということもあったかもしれないが、青ヶ島方言でいうところのテッジメ(妖怪の一種)に馬鹿にされたのである。それも今となっては懐かしい。
ハンブン・カミサマの辺りは、夏場の真昼の時間帯でも相当に暗い。まるで原始の山林に迷い込んだような感じを与える。しかし、わたしはこの場所がとても気に入っていた。ハンブン・カミサマに奉納された小さな鳥居にローソクを灯すと、その雰囲気は弥増しに高まる。そんなときに風を感じると、まさに槍ノ坂天狗がそこにいるかのように思えた。いつだったか、冬場の午後5時過ぎの真っ暗闇の中でローソクに点灯すると、突然、牛が現われた。佐々木一郎さんのところにいた渡辺さんが牛を追いながら上ってきたのだった。
ちなみに、槍ノ坂の槍とは一種の突起状の二メートル前後の小山(?)のことで、坂を降りきった道路周辺に数個点在し、そのうち一個はかつて天辺から薄い蒸気を出していた。一種のチムニーだったらしい。それも落石で壊れてしまったか、道路の拡張などで消滅してしまったようだ。
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