目 次
第20話
第21話 天野社と葉山信仰――あるいは、青ヶ島の天野早耳者様(テンニハヤムシサマ)と葉山八天狗(ハヤマハチテング)との関係――
第22話 青ヶ島の消えた点景の想い出
第23話 青ヶ島はユニハである
第24話 ふたつのオリンピックのころ
第25話 郵便物を出すときの不安について
第26話 続・郵便物を出すときの不安について---無番地ということ---
第27話 双丹姓の謎と青ヶ島の「でいらほん流」
第28話 伝説・青ヶ島保育所のオルガン
第29話 カナヤマサマと金山祭り
第30話
第29話 カナヤマサマと金山祭り
2005.12.07
 
 12月9日は旧暦の11月8日である。この日、全国各地の鍛冶神系の神社では、フイゴ祭りが行われる。フイゴとは、昔、村の鍛冶屋が使っていた金属精錬用の送風機のことである。すなわち、フイゴ祭りとは、鍛冶屋がフイゴを用いて真っ赤になった鉄を打ち農機具などを作って奉納する行事である。ちなみに、フイゴの語源は、『広辞苑』によれば、「吹き皮」の転で、古代人が鹿の皮を利用してフイゴを作ったことに由来する。
 じつは、青ヶ島でも、旧暦の11月8日、カナヤマサマを祭っている家では「金山祭り」を行った。ただし、青ヶ島では、カナヤマサマは巫女・社人のオボシナサマのひとつと化しており、金山祭りもオボシナ(ウブスナ=産土の転)祭りのひとつになっている。
 このカナヤマサマは、わたしが青ヶ島で最初に出会った神様だった。昭和46年5月、当時「名主の家」に住んでいた佐々木きちえさんに挨拶に行ったときのことだった。屋敷の入り口付近の石積みのヲリ(一種の石垣)に囲まれて、屋敷神のような祠があった。
 同行してくれた佐々木(のち黒瀬)正人さんに、おもわず「この変な神様は何というの?」と尋ねてしまったのである。
「わーっ! へんどう神様だらあって…。こわっきゃのー。おっかなけ神様だらら。目がつぶれるわよー。」
 正人さんはわたしを制するように、少々、慌て気味に応えた。
「大丈夫! ぼくは鍛冶屋の神様とは仲がいいんだから…」
 わたしがそう言うと、正人さんは安心してくれたが、彼がこの「へんどう神様」の存在に怯えていることだけはよくわかった。
 じつは、わが出生地でもある池上の現住所の隣りは、かつては我家から北へ100mほどのバス通りの角にあった鍛冶屋(鉄工所)の資材置場で、わたしは子どものころから鍛冶屋の仕事についてはかなり知っていたし、親しみを持っていた。青ヶ島に渡ったばかりの頃は、民俗学にはまだ詳しくはなかったが、すでに柳田國男の本は何冊か読んでおり、鍛冶屋系統の神が恐れられていたことも知っていた。さらに、わが苗字の菅田姓とは深い関係があるらしい菅田神社(『延喜式』神名帳の大和国添下郡、近江国蒲生郡、播磨国賀茂郡にあり)の祭神で、菅田首(すがたのおびと)の祖神でもある鍛冶神の、天目一箇(あめのまひとつ)神が零落したのが、柳田國男によれば、一つ目小僧であることも少しは知っており、正人さんの「おっかなけ神様だらら。目がつぶれるわよー」のコトバで、「へんどう神様」がわが所縁の鍛冶屋の神であることを直感した。そこで、後日、単独でこの神を訪ね、祠に付着した苔やマメヅタを剥がして見ると「金山様」と彫られてあり、この石の祠の神も広義の鍛冶神であることを知ったのである。
 わたしがカミソウゼ(神奏ぜ)を受けないで、青ヶ島の社人になれたのは、このカナヤマサマと、トカイサマ(渡海神社)のお陰である。当時(昭和46〜48年ごろ)、渡海神社はその神域(イシバ)の周囲が竹やぶと鉄条網で覆われており、容易に立ち入りができない状態だった。ただ1箇所だけ、鉄条網が破られた箇所があり、昭和46年の、たしか11月の初め(旧暦9月21日)、そこを潜って偶然、ロウソクと線香を持って参拝したのである。たまたま、その日は渡海様の祭礼日に当たっていたのだが、神域が封鎖されていたため、数年にわたって卜部・社人・巫女たちは行くことができなかったのである。その翌日、巫女の廣江のぶゑさんと卜部の廣江次平さんが気になってペンチを持って出かけて参拝すると、すでに誰か参拝した形跡があり、島の人が参拝したと思えなかったので、わたしだとわかったというのである。
 また、同じ昭和46年の旧暦11月8日のオボシナ祭りの日、次平さんが大里神社の「下の石場」へ行くと、カナヤマサマのイシバの前に五寸釘の刀が刺さっており、こんなことをするのは、これまた、わたし以外には考えられない、ということで、社人に迎えられたのである。じつは、わたしはその日がカナヤマ祭りということを知らず、しかもそのイシバがカナヤマサマ(表記なし)であることも知らず、五寸釘の刀を奉納したのである。
ちなみに、この五寸釘の刀は、その数日前、菊池梅吉オウサマから頂いた木炭(当時80歳を超えていた梅吉さんが自ら焼いたもの)を七輪に入れ、その火で五寸釘を打って作ったものであった。何だか急に、そういうものを作ってみたくなり、たしか3振り作ったうちの、一番出来栄えのよい1振りを奉納したのである。次平さんによれば、まったく同様のものを、カナヤマサマを祭っている家では、かつては作って「上の石場」に奉納した、というのである。そうした偶然が折り重なったこともあって、カミソウゼもしないのに、廣江次平さんと廣江のぶゑさんの二人に認められて正式の社人になったのである。
 ところで、その頃の青ヶ島には、13ヵ所(一説では14ヵ所。うち11ヵ所を確認)のカナヤマサマがあったが、このうち明らかに鍛冶屋に関係していたのは、廣江仙太良屋敷の仙太良カナヤマだけだった。この話は、1984年刊行の『青ヶ島の生活と文化』(青ヶ島村教育委員会)所収の拙稿「宗教と信仰」の中の「カナヤマサマ」(882〜884ページ)の項にも載せたが、廣江仙太良は明治14年10月13日生まれで、戦時中、疎開先の静岡県へ転籍、戦後、青ヶ島に舞い戻り、昭和32年ごろ、八丈島へ転出し、その後、八丈島で逝去しているが、青ヶ島在島中は鍛冶屋をしていた。同家は昭和30年代の後半には廃屋状態になっており、ほとんど朽ちかけた屋敷内にはフイゴや金床があり、神棚にはカナヤマサマを祀った御宮があった。
 昭和48年、当時東京都教育庁文化課に在職していた金山正好氏が来島されたおり、わたしは同氏をその廃屋へ案内した。そのとき、同氏が同じ「金山」のよしみで、そのカナヤマサマの御神体を見たいというので、お宮の扉を開いたところ、ご神体は一見、溶岩にみえる金屎(カナグソ=鉄の残滓が溶けて石のようになったもの)であった。つまり、仙太良鍛冶の祀るカナヤマサマは紛れもない鍛冶神だったわけである。しかし、その他のカナヤマサマは、先祖が鍛冶屋をしていたという伝承を持つ菊池梅吉翁の屋敷内のイシバに祀られているものを除くと、必ずしも鍛冶神系とはいえないのである。
 確認できた11ヵ所の祀られ方をみると、神社内にあるのは大里神社の「下の石場」と、大根ヶ山の神明宮(イシバだけで構成)の2ヵ所で、屋敷内あるいは庭石場(テイシバ)にあるのが7ヵ所で、残りの2ヵ所は崇敬者の住居から遠く離れたところ(カナヤマサマを祀った単独のイシバ)にあった。直接、鍛冶屋とは関係ない9ヵ所のうち、中村倉一さん宅のは、下が物置の、上が「神棚」状の押入れの中に無造作に置かれてあった。今から想うと、それは箱の中に入っていた。つまり、カミソウゼを受けた巫女・社人のオボシナを入れた御箱(ミバコ)だった。倉一さんは社人ではなかったから、その御箱は血縁者から相続したものである。また、オボシナは石の祠に込められることもある。そして、それを継承する人がいなくなると、神社のイシバに遷されることもある。にもかかわらず、屋敷内あるいは庭石場で7ヵ所も祀られているということは、このカナヤマサマが遷されることを嫌う、ある意味では「おっかなけ神様」であることを物語っている。その在り様は、鍛冶神カナヤマサマというよりも、方位神のコンジン(金神)に近いように思える。というよりも、両者を総合した存在にも見える。
 それはさておき、池上の我家の庭の一角にも、昭和49年1月29日、卜部の廣江次平さんに込めて頂いた石を依代とする、自分のオボシナを祀ったイシバがあって、昔は、しばしば、その前で五寸釘製の刀を作ったものである。過日、物置を片付けていると、木炭と七輪が出てきたので、カナヤマ祭りの旧暦11月8日に「フイゴ祭り」を真似て、ひさびさにカナヤマ祭りをしてみたいと思っている。(h.17n 12gt 6nt 記)

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