目 次
第29話
第30話 青ヶ島のニカイゾウリ
第31話 再び青ヶ島のニカイジョーリについて
第32話 獲らぬ狸の人口300人構想の一瞬の現実性の白昼夢の輝き
第33話 一枚の写真の記憶
第34話 買ってはいけない!宝島社の『ニッポン「不思議島」異聞』
第35話 新しい“無集配局”時代の郵止ピアが到来か?
第36話 通れなくなっていた槍ノ坂、会えなかったハンブン・カミサマ
番外 13年半ぶりの青ヶ島
第37話 フン嗅(くさ)、フークサ、フーンクサ
― 青ヶ島の節分の厄払い神事 ―
第38話 僕がシャニンになれたわけ
第39話 オトリサマ(お酉様)の祭りのトウショウジガミ
第40話 チョンコメ、青ヶ島バター、青かびバームクーヘン
第41話
第32話 獲らぬ狸の人口300人構想の一瞬の現実性の白昼夢の輝き
2006.07.08
 

 平成4年の6月から7月にかけてのことである。当時、青ヶ島では人口300人構想なるものを打ち出していた。もちろん、わたしはその時分、青ヶ島村助役であり、その実現のため、いろいろな方法を考えていた。役場職員の中には、村長の掲げたその構想は絶対に実現不可能な夢であり、絵に画いた餅だという人も結構いたが、わたしは人口規模は若干違うものの、鹿児島県十島村の小宝島の例を挙げて、絶対に不可能とはいえないことを示して説得してきた。そして、その実現の足がかりが目の前に、突然、現れたのである。

 その兆候は、たしか連休明けに起こった。まだ若い郵便局長が青ヶ島を離れてしまったのである。それから10日間ほど経って、彼の父親でもある元局長のOK氏から次の局長候補の人事に関しての電話があった。そのために村で局長の住宅を確保してほしい、ということであった。わたしは多分、善処したいけれど目下、村営住宅の空きはない、と答えたと思う。ただし、次の局長が学齢期の子どもを抱え、家族ぐるみで着任するならば、積極的に対応したい、付け加えたはずである。
 しばらくして、元局長からと東京郵政局から相次いで電話があり、三人ほどの候補者がいるが、なるべく早く決定して通知するとのことだった。郵政局の話では、青ヶ島郵便局は特定郵便局だが、集配局でもあるので東京から派遣する場合、それなりの有資格者でなければならないので鋭意、人選中であるということだった。それから、またしばらくして、正式な決定ではないが、内定者には中学生と小学生の子どもがいるので、あらためて住宅の確保をお願いしたい、とのことだった。わたしは、教育委員会と相談しなければならないが、子どもの転入学の手続きもあるので、なるべく早く氏名・家族構成を教えてほしい、と伝えた。
 そして、その話を、本HPの管理人で、当時、青ヶ島村教育長だった吉田吉文さんのところへ持ち込んだ。「吉田さん、9月から小学校と中学校で、児童生徒が一名ずつ増えたら、どうなる?」彼は即座に嬉しそうな顔をして答えた。「教員を、もう一人増やすことができます。」
 わたしは、さらに追い討ちをかけた。「それでは、その教員を家族持ちで家族で来ることができる人を選ぶことは可能か?」彼は即座に「もちろん」と答えた。
 これでマイナス1名が差し引きでプラス7名になる可能性が出てきた。それを足がかりにして村で大胆な施策を打ち出し、全国最小村からのメッセージということでマスコミ操作をすれば、5年でプラス100人の人口300人も夢ではないと確信した。しかし、獲らぬ狸の皮算用のプラス7人も、当面のネックは住宅問題である。わたしと吉田氏は思わず顔を見合わせてしまった。そして、吉田教育長は言った、「ぼくらが犠牲にならなくてはいけないのかも…」と。
 それ以前に、わたしは決心していたのだ。自分が入居していた村営住宅を出る可能性について、元局長のOKさんから最初の電話があったときから考えていたのだ。じつは、その時点で、わたしが自分の住宅を明け渡した場合、何処へいくことができるか、を検討した。そして、最悪の場合、吉田教育長がその前年の秋まで入居していた図書館の事務室(約3畳、押入れ、台所を含めて4畳半ぐらい、風呂シャワーの類無し、トイレは図書館用)へ移らなければならないかも…と思っていたのである。さらに、役場の島外出身者で一番の古株の吉田氏も、昨年ようやく入居できた村営住宅からもう絶対に出ない、と語っていたのに「9月までにプラス7名になるなら、ぼくも出ましょう」と言ってくれたのだ。また、その話を聞きつけた若い役場職員の玉嶋秀猛さんは、廃屋状態になっていた古い校舎を僕らで改造し梁山泊にしようと素敵な提案をしてくれた。
 しかし、不幸は突然に、そして徐々にやってきた。7月5日(日)青ヶ島中学校の社会科教員のSIさんが事故でなくなられてしまったのだ。彼はその4月、奥さんと小学生の2人の女の子と着任したばかりだった。わたしは彼とは宗教的立場を異にしていたが、妙にウマがあった。そのため、夫人のSJさんとも何度か話したことがあった。彼ら夫婦は青ヶ島をひじょうに気に入っていたのである。
 彼の葬儀は東京で行なわれ、わたしも出席したが、できれば、青ヶ島で生活したいとのことであった。また、彼女の島での友人の村人からも、臨時職員でもいいから雇ってほしい、との打診があった。禍を転じて福となすという考えからすれば、SIさんの後任も彼と同じ世帯持ちにすれば、彼が欠けてもさらにプラス2〜3人増えるということになる。9月には、SIさんの逝去はあったが差し引きプラス10名の可能性も出てきたわけである。 
 ところが、葬儀出席を兼ねた出張から帰ってくると、青ヶ島の空気は変わっていた。SJさんにたいし、旦那が亡くなったのに島に残るなんて変だ、と言い出す人が出てきたのである。青ヶ島では毎年8月10日、村で最大のイベントの牛祭りがあるが、彼女はせめて、それだけは観たいといっていたのに、それもかなわず出て行ったのである(ただし、平成6年8月には観光客として来島している)。
 ただし、SJさんは、わたしのために島を去った、と今なお、わたしは思っている。というのも、出張から帰ると、新しい局長が8月1日に着任し、そのために、わたしが村営住宅を出て図書館へ引っ越す、という話が流れていたのである。わたしは、どんな人が来るのかと思ったら、なんと単身赴任だという。それでは、話が違う。じつは、我家でも牛祭りを観るため、妻と子どもがくることになっており、すでに航空券も購入していたのである。SJさんは、そのことを知って、自分たちが出て行けば、新しい局長はそこに入ればよい、と考えたのである。ところが、国(当時は郵政省)との約束違反はできない、との当時の村長の厳命で、SJさんの厚意もむなしく、わたしのせめて8月15日までは待ってほしいとの懇願も拒絶され、結局、退去せざるを得なくなってしまったのである。
 職員の中には、わたしの家族は民宿へ泊まればよい、と主張するものもいたが、わたしの次男坊は東京都の『愛の手帳』2度の知的障害児(強度行動障害)であり、客ゼロで、しかも家族以外の介護者が何人か付いてくれるのならまだしも、ひじょうに難しい状況だったのである。それで、やむなくわが家族の来島は断念せざるを得なかった。
 とにかく、これで、人口300人構想の、獲らぬ狸の皮算用は、一瞬の、現実性を帯びて輝いたにもかかわらず、あとかたもなく消え去ってしまったのである。ちなみに、当時の『広報あおがしま』を見ると、青ヶ島村の人口は平成4年6月末203人、7月末201人、8月末201人、9月末203人、10月末204人である。当時、青ヶ島ではベビー・ブーム(?)の兆候もあり、じつは、年末の220人も夢ではなかったのである。
 ちなみに、郵便局長は8月9日に着任し、そして彼の引越し荷物が届いたのは9月だった。つまり、それまでは局長は民宿住まいだったのである。その彼は、あとから、わたしの話を聴いて、ひじょうに恐縮していたのを、まるで昨日のことのように憶えている。
 なお、わたしは今日の少子化の時代でも、青ヶ島のような村では、うまくやれば、人口300人は今でも可能だと思っている。なぜなら、わたしの第一在島期(昭和46年〜49年)、青ヶ島村・御蔵島村・利島村の伊豆諸島の“弱小3兄弟”島はいずれも人口200人以下の、場合によっては190人も割りかねない横並びの村だったのに、利島村と御蔵島村は平成12年国調では300人を超えているからである。

 >>HOMEへ