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第31話 再び青ヶ島のニカイジョーリについて |
2006.05.01
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昨年12月の《でいらほん通信拾遺》第30話で「青ヶ島のニカイゾウリ」について触れた。青ヶ島方言の正しい発音だと「ニカイジョーリ」ということになるが、それを所蔵・展示している広島県福山市松永の日本はきもの博物館と、今年に入って何度かメールのやり取りをした。じつは、わたしが同館を訪ねたとき、ニカイジョーリの解説には「娘が若者へ婚約の約として贈る二階建て草履で、男女が一緒になることを表す」というコメントが付いていたのだが、昨年の同館のHPの表示だと贈り手のジェンダーが「女→男」ではなく、まったく逆の「男→女」へと変わっていたのである。わたしは、それを元へ戻してほしい、と依頼したのである。
同館の市田京子学芸員から折り返し、すぐ返信が来た。市田さん(1983年入館)からのメールによれば、作成時の資料記録票(1979.6.15)には、たしかに「女→男」と記してあったが1985年ごろ「男→女」に変えたのだという。そして、その典拠が『青ヶ島の生活と文化』(1984年7月1日発行)というのでビックリした。わたしもその執筆陣の一人だが、迂闊なことにその762ページに、次のようなことが記されていることに、今までまったく気が付かなかったのだ。
「22.ニカイジョーリ
男が恋しい女に贈ったといわれる草履で、普通の草履に対し台の縁どりが2段になっている。鼻緒はサンガイバナといって、鼻緒をたてる芯緒が、緒に3周回しすげられている特徴がある。メナラベ(娘)にとってニカイジョーリを履くことは、大きな誇りであったという。」
これを書いたのは、『青ヶ島の生活と文化』の企画者・推進者で、当時、青ヶ島村の教育長をしていた松原和史さんである。そこで早速、松原氏に電話をしてみると、「当時のことはほとんど覚えていないし、内容の自信についてはまったくない」とことだった。さらに、松原氏の前任者の加藤五十子さん(現姓・水野)に聴いてみると、「そりゃあ、松原説より菅田説のほうが正しいわよ」とのことだった。しかし、市田さんは「メナラベにとってニカイジョーリを履くことは、大きな誇りであった」という点に注目し、新島の「若者が恋人に送るゾウリ」(近藤四郎著『伊豆新島』1954年)の例をあげ、「男→女」の可能性を指摘した。厳密にいえば、作り手と贈る側のジェンダーが違う可能性もあるので、わたしは青ヶ島村役場へ問い合わせた。
その結果、現在でも作れる人が3人もいることがわかった。一人は前回の記事でも紹介した廣江重子さん(大正5年生まれ)や、そして奥山三千代さん(昭和11年生まれ)が今なお作ることができることが判明した。さらに、50代の女性も作る技術を伝承していることがわかった。その気になれば、この民俗伝統の技術は島起しにも使えるのである。
青ヶ島村役場総務課の佐藤克彦さんによれば、彼女らはいずれも「女→男」の説を支持しているという。作り手にかんしても、贈り手についても、わたしの説で「まず間違いはないでしょう」とのことだった。
市田さんとのメールのやり取りの中で、わたしの勘違いもあった。館の記録によれば、わたしが潮田鉄雄さんに連絡したのは昭和52年(77.4.20)で、それを受けて菊池梅吉さんがその2年後(79.6.12)に寄贈しているという。わたしは、作ってくれたのは廣江重子さんとばかり思い込んでいたが、資料記録票によれば、製作者は「佐々木おみえ(明治25年生まれ)」となっているという。佐々木美恵さんのことである。
ところで、ニカイジョーリを見たり手にしたりしたことがある人は、鼻緒に赤い糸が使われていることに気持ちが惹かれるという。市田さんが「メナラベの誇り」に感情移入したのもそうだし、重子先生が作ったニカイジョーリを在職中に見たことがある水野五十子さんの感想もそこにあった。じつは、わたしが「女→男」の方向性に強く惹かれたのも、その赤い色にあったのである。
長田須磨『奄美女性誌』(昭和53年、農村漁村文化協会)によれば、かつての奄美や沖縄には、娘や若妻が出征や外洋への出漁時に経水染めのミンサーを贈る風習があったという。ミンサーとはハンカチあるいはマフラー大の「ひれ」で、女性たちはそれを自分の月経で染め上げたものを男たちに贈ったのである。すなわち、ヲナリ神(柳田國男風にいえば「妹の力」)の生御魂のセヂ(霊力)によって夫や恋人の安全を守るのである。
すなわち、ここには女性の積極性が見られるのである。伊豆諸島は北と南では文化圏が違うが、八丈島や青ヶ島は精神風土的には、よほど奄美・沖縄に近いのである。そういうことで、わたしは、青ヶ島のニカイジョーリの作り手及び贈り手のジェンダー方向が「女→男」であることに、何らの疑問も持たなかったのである。しかし、今回の指摘で軽々しい判断は禁物であり、ましてや文化人類学的シンボルで思い込むことは危険であることを認識した。わたしは自説が100%正しいとは思っていないのである。
最後に、市田京子さんからのメールで、潮田さんが2004年9月、67歳で逝去していることを知った。ここで、この場を借りて、潮田鉄雄さんのご冥福を祈りたい。
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