目 次
第29話
第30話 青ヶ島のニカイゾウリ
第31話 再び青ヶ島のニカイジョーリについて
第32話 獲らぬ狸の人口300人構想の一瞬の現実性の白昼夢の輝き
第33話 一枚の写真の記憶
第34話 買ってはいけない!宝島社の『ニッポン「不思議島」異聞』
第35話 新しい“無集配局”時代の郵止ピアが到来か?
第36話 通れなくなっていた槍ノ坂、会えなかったハンブン・カミサマ
番外 13年半ぶりの青ヶ島
第37話 フン嗅(くさ)、フークサ、フーンクサ
― 青ヶ島の節分の厄払い神事 ―
第38話 僕がシャニンになれたわけ
第39話 オトリサマ(お酉様)の祭りのトウショウジガミ
第40話 チョンコメ、青ヶ島バター、青かびバームクーヘン
第41話
第40話 チョンコメ、青ヶ島バター、青かびバームクーヘン
2008.03.19
 

 (1)生まれて間もない仔牛は、まるで子馬のように飛び跳ねる。青ヶ島や八丈島では、このような仔牛をチョンコメと呼ぶ。メは「可愛らしいもの、いとしいもの」などに付ける縮小辞(接尾語)である。内藤 茂著『八丈島の方言(しまことば)』(昭和54年3月20日発行)にも「チョンコメ(名) こうし(仔牛)」(p.168)とある。その生命力あふれる仔牛の可愛らしさに因み、八丈島にはチョンコメを冠する団体やグループがある。
 今から30年ほど前、東京で青ヶ島での生活を聞かれ、「青ヶ島では仔牛のことをチョンコメと呼ぶ」というようなことに、話題が及んだことがあった。そのとき突然「それって差別語ですよ」と指摘された。一瞬、唖然・呆然としたが、その指摘で「チョンコメ」の「メ」以外の部分の意味に気が付いた。
 わたしが初めて青ヶ島へ渡った昭和46年5月ごろは、たしか青ヶ島には自動車(前輪駆動のジープばかり)は5台あるかないかの状態で、荷物の運搬はもっぱら荷役用の牛の背に頼っていた。かつて“牛とカンモと神々の島”(戦後の一時期には400頭がいたという)と謳われた青ヶ島には、そのころでもかなりの牛がいた。黒牛(黒毛和牛の導入はその後)やホルスタインもいたが、牛の大半はモウモウではなくべーべーと鳴く役牛のアカ牛(赤というよりも茶色、もしくは黄色に近い)だった。
 重たい荷物を背に乗せてゼーゼーと息を弾ませながら急勾配の坂を上っていくとき、アカ牛はべーべーと鳴くのである。そして、それらのアカ牛は朝鮮牛(ただし、ほとんど使われていなかった)とも呼ばれていたので、「ああ、そのことだったのか」と遅まきながら気が付いたのである。ただし、チョコンメの名称は、牛の種類に関係なく広く仔牛にたいする名称として等しく使われてきたのである。

(2)牛といえば、かつて青ヶ島ではバターが盛んに生産されていた。だが、牛が食べたエイタバ(明日葉)のせいか青臭く、しかも保存のために多量の塩が投入されていた。何しろ船が何時やってくるのか、わからない時代だったから、ただ腐敗しないことだけを念頭に生産したのである。
 今日風に言えば「賞味期限」など、まったく問題外であった。現在の感覚では、一種の「欠陥商品」扱いされるかもしれない。しかし、当時の食糧不足の時代においては、貴重品として、それでもまあまあの値段で取引されたらしい。食品としてそのまま使われることもあったし、食糧事情が若干、好転すると、安く買い叩かれて、青ヶ島産バターは塩抜きされて原料として再生されたらしい。原始的な手回しの分離器で製造されたバターは、何時、東京へ届くかわからないという最大の難点もあって、やがて買い手がつかなくなり、昭和28年、当時二つあった組合もつぶれた。
 昭和47〜8年ころ、中原の兵隊墓近くの教員住宅(その後、取り壊されて牛の人工授精センターなどへ変遷)の一画にはバター工場跡という場所がまだ残っていた。教員が自分の住んでいる場所を示すとき、年寄りには「バター工場跡ですよ」などと言っていたことを思い出す。

(3)中国製の毒入りギョーザはもっての外だが、昨年あたりから食品の偽装・賞味期限の問題が深刻化している。
 賞味期限に関しては、少なくとも青ヶ島では昭和47年8月30日の村営連絡線「あおがしま丸」の就航まで、そういう概念がなかったといえる。1ヶ月くらいの完全孤立は日常的であり、注文した商品が何時到着するか、は神のみぞ知る、という状態であったからである。青ヶ島のそういう特殊事情を知っている業者の中には、今風に言えば、明らかに期限が切れているものでも、青ヶ島の人が文句を言わないことを幸いに、平気で送ってきたこともあるのである。公衆電話が2回線しかない時代で、しかも通話料が高額だったから、文句の言いようがないということもあった。
 ところで、昭和46年の11月下旬ことだったと思うが、村長が出張しているのを幸いに、村長の机の上とその周りにある島外来庁者からの土産物を、役場職員一同で分け合って食べたことがある。当時の奥山治村長は島外からやってきた人の土産にほとんど手をつけず、そのまま放置してしまうという習癖があった。奥山喜久一さんの号令で、それを「鬼のいない間の」なんとかで一気に処理しようというのである。期限内で明らかにお菓子と思われるものは保育所に回し、期限外のものでも缶入りの煎餅などは後の楽しみということにして、古いもの(実は危ないもの)から手につけた。
 その中に円い缶に入ったバームクーヘンがあった。多分、それは夏に誰かが持ってきて「なるべく早くお召し上がりください」と言い残して置いていったものである。恐る恐る開けると、ビニールテープで密封されていたにもかかわらず、バームクーヘンには青かびが付着していた。
 「マサ、噛めよい」と、喜久一さんが正人君に命令する。
「あが よっけが…。こごんどうめ、喰いほう、なっきゃあ。あが やだらあ」と正人君。
 そのうち、喜久一さんが青かびの部分を外して食べ始め、「謙アニィー、かめるわよ。平気だらあ。おめえも噛みやれ」と謙次さんに勧める。
そのうち、わたしの女房にも「奥さ〜ん、大丈夫、大丈夫、全然、平気だらら」と、一番、青かびの少なそうな部分と切って皿に乗せてくれる。
多分、ぼくと正人君は食べなかったが、食べた人はまったく当たることもなかった。わが女房の場合、半年以上、この種の、バームクーヘンなど食べていなかったので、とても美味しかった、と言っていた。のちに良寛が托鉢で得た最早、食品とは呼べないものまで口にした、という事実を知って、ああ、やられたな、と反省したが、昨今の“食”の問題を考えると、“賞味期限”や“再利用”って何だろう、と思ってしまう。
 中途半端な三題噺のようになってしまいました。おお、モッタイナイ!

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