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30 〈島〉という聖域が危うくされている |
2007.10.04
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あれもこれも、「聖域なき改革」と称し、女性天皇ではなく女系天皇を積極的に容認し、創出させようとした小泉改革。
《構造改革》の美名の下に、「やっている、やらせている」といって、実は、名前だけの郵政改革だけを断行し、にもかかわらず、その他は全て丸投げすることで、《日本》を破壊することだけはしっかりやってきた小泉純一郎とその内閣、その追随者たち。そして、彼らに騙された、だが、その内実は、そいつらを熱烈支持したという点では「自己責任」を負わされている日本国民。
小泉改革という名の、その「グローバル化」のツケが回ってきた。小泉チルドレンに物を言う資格なし。
佐渡のサンアローという会社の件、まったく知らなかった。貝で作ったボタン作りの技術力が携帯電話のボタンへと移行し、それが「小泉」のせいで中共(中華主義の共産党)主導の社会帝国主義(もちろん、帝国主義とはレーニン言うところの「資本主義の最高段階としての…」義だ!)国家である支那へ移転させてしまう、とは…!
ちなみに、佐渡でボタンの製造が始まったのは、江戸時代の幕府による金山経営が行き詰まってきたことに始まる。しかし、ひとつものが衰退すれば、何か別の新しいものが生じてくるのが日本の技術力の伝統だ。小泉改革は改革の名のもとに、その生み出す伝統性の力の息の根を止めた。
ところで、離島も〈聖域〉だ。日本というシマの象徴的存在なのだ。その離島への航路は、かつてトカラの島々の住民が主張したように「道路」なのである。青ヶ島でも、昭和40年代当時、青ヶ島村長だった故・奥山治氏が同様の主張をしていた。そして、今や、それが常識化してきた。
しかし、「道路」であるがゆえに、この道路を寸断したり、あるいは、廃止したりして、要するに、離島住民を孤立化させ、その論理の究極の帰結としては、住民を追い払うという〈改革〉の意思すら見え隠れするようになってきた。これは離島振興法や海洋基本法の精神にも反する。
海洋基本法を策定する過程で、離島の存在が果たしてきた役割が明確化してきた。わが国には、領海と排他的経済水域(いわゆるEEZ)で国土面積の約12倍(世界第6位の広さ)を有するが、この領海とEEZは北海道、本州、四国、九州、沖縄本島の5大島以外から成立している。すなわち、離島を外したら、日本の領海もEEZも存在しない、といっても過言ではないのである。
にもかかわらず、外海孤立小型の離島に住民が住むということを、「改革」の視点から“良し”としないという風潮の、その論理的帰結は、領海やEEZは要らない、ということである。極論すれば、日本の領海やEEZを、ロシアや北朝鮮や韓国、中国、アメリカにくれてやってもよい、ということである。離島の存在を全否定して、誤れるグローバリズムの精神で、領海・EEZ(漁業権とか天然資源に関する諸々の権利が含まれている)を放棄するということに他ならない。これは生存権の否定でもある。
海洋基本法が誕生して、これからは「国民の皆様が魂を入れてください」といわれる中で、その魂の容れ物としての〈島〉の存在が否定されようとしているのだ。「美しい国」づくりが否定され、その原基ともいうべき〈島〉の存在も危うい。おお、素晴らしき哉、「聖域なき改革」よ!
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