目 次
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21 フーテンの寅さん所縁の柴又は、正倉院御物「養老五年(721)下総国葛餝郡  大嶋郷戸籍」の「嶋俣里」に発します
22 島を意味する諸言語の表
23 少子化・人口減の原因は市町村合併による村潰し・島潰しにあり
24 オロロン鳥は悲しく啼き、そして浅之助は…!
25 政治の季節と地方という霊性 ーもちろん島からの視点ー
26 <硫黄島>の呼称変更への疑義
27 野本三吉著『海と島の思想―琉球弧45島フィールドノート』(現代書館、2007年)を読んで
28 再び「佐々木卯之助砲術稽古場」について
29 再び川崎市・市ノ坪の「鬼ヶ島」について
30 〈島〉という聖域が危うくされている
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27  野本三吉著『海と島の思想―琉球弧45島フィールドノート』(現代書館、2007年)を読んで
2007.07.09
 

 (1)野本三吉さんがその処女作『不可視のコンミューン』(社会評論社、1970年)以来、こだわり続けてきた概念というかキー・ワードは“不可視”である。すなわち、肉眼ではなかなか視えないものを、野本さんは一貫して観ようとしてきたのである。その姿勢はこの最新著にも、もちろんのこと活かされている。
 この本はその副題にもあるように、「琉球弧45島」についての、野本さんのフィールドノートである。しかし、単なるフィールドノートではない。肉眼では視えてこないものを、野本さんは観ようとし、感じたことを記しているからだ。
 ここで、あえて誤解を恐れずに言えば、この本はじつは「琉球弧45島」についての“観光ノート”である。それも、もちろん、単なる“観光”ではない。よく知られるように、「観光」の出典は「観国之光」(易・観)である。すなわち、その地域の光を観ることが本来の観光の目的だった。しかし、それは可視光線の範囲に限定されてしまう。
 当然のことながら、野本さんは可視光線を超えた“不可視”の領域へ、その眼差しを向ける。じつは、野本さんは本書の中で、本当の観光とは国の光を観るのではなく、神の光を感じることにある、というようなことまで言い切っている。「琉球弧45島フィールドノート」が単なるフィールドノートではない、というのはその意味なのである。45島の、それぞれのシマの神々の光を浴び感じながらの、不可視の領域を観ようとしてのフィールドノートなのである。
 そのための、島々の神々の光を観る野本さんの〈旅〉には、心強い助っ人がしばしば同行する。沖縄のノロ・ユタの信仰を継承する沖縄ミロク会の“巫女”集団の面々が野本さんと一緒に出かけている。その意味では、神の光のフィールドノートであると同時に、彼女らとの共同の御神業の記録でもある。そして、野本さんの奥さんもしばしば同行し、霊能力を向上させているようなのである。また、同行者の中には出口三平さんや窪田英樹さんなどの大本系の独立シントウイストの名前も見えることから、今まで埋没化していた琉球弧の神々の蘇りが予想される。
 こんなことを書くと、神様好きでない人からは“怪しい”本と思われるかもしれないが、じつは、そんな“臭み”はあまりない。彼の本業は本名・加藤彰彦としての沖縄大学の社会福祉の教授職にあるが、“福祉”の領域も一見、肉眼には視えにくい部分を実践的に追求していくという点では“不可視”の領域だ。いいかえれば、その眼差しが「琉球弧45島」へ万遍無くゆきわたっているといえる。かつて近江学園の創設者・糸賀一雄(1914〜68)は「この子らに世の光を」ではなく「この子らを世の光に」だと主張されたが、野本さんのいう「神の光」は糸賀氏の「世の光」に通底する。
 神様好きの人はもちろん、そうでない人も、およそ島々や沖縄が好きな人、さらに差別されている人々や場所に興味を持つ人にとっては、この本は必読書である。どんな体裁の本か知りたい人は現代書館のHP(http://www.gendaishokan.co.jp/)をご覧下さい。

 (2)野本さんの存在に最初に気づいたのは昭和44年ごろだったと思う。当時、たしか日本協同体協会というところから『月刊キブツ』という雑誌が出ていた。野本さんはそこに連載していたのである。しかし、それが『不可視のコンミューン』というタイトルで一冊になったことを知らなかった。ちなみに、今、その本は誰かに貸したまま戻ってきていない。
 わたしは昭和46年5月、青ヶ島へ渡ったが、その直後、新聞の広告欄で『不可視のコンミューン』の刊行を遅まきながら知って、弟に頼んで送ってもらった。そして、読了後、本の中に挟まれていた読書カードに感想を記して送った。たまたま船のめぐり合わせが良かったこともあるが、1ヵ月ほど経つと、野本さんから手紙と個人通信『生活者』が送られてきた。それ以来の付き合いだから、じつに、もう36年になるわけだ。
 初めて会ったのは、多分、昭和49年のことである。季節を思い出せないが、野本さんの職場である横浜市寿生活館を訪ねると、館は閉鎖中か封鎖中だった。たしか当局側が閉鎖したのを、利用者側が逆封鎖し職員と一体となって自主管理していたのだと思う。
 野本さんはこの寿生活館の職員として昭和47年から日雇い労働者の生活相談の仕事を9年間したあと、横浜市南部児童相談所へ移り、ここでも9年間。児童相談所へ移って間もない頃、お会いすると、子供の家に家庭訪問へ行くと、なぜか、その近くに必ず古社とか由緒ありそうなうらびれた神社があり、その子も含めて近隣の子どもたちの安全と幸せを祈らざるを得なかったと語っていたのを思い出す。ちなみに、どちらの職場も横浜市民生局に属していた。
 わたしが青ヶ島村の助役をしていた平成3年3月の中ごろ、野本さんから役場へ電話があり、4月から横浜市立大学の社会福祉の助教授へ転進するとの朗報。じつは、その前年あたりから野本さんは腰痛で「生涯、平職員として福祉の現場で仕事をしたい」と言っていたのを、上司や友人らに説得されて「係長昇進試験」などを受けたものの、見事に落っこちて実は内心喜んでいた中での突然の転進だった。
 横浜市立大学教授時代の野本さん、否、加藤彰彦さんには何度か会ったが、そのたびに、彼は沖縄に住みたい、沖縄の島々を歩きたい、ともらしていた。その願望が通じたのか、平成14年には沖縄大学へ移り、人文科学部の社会福祉の教授を務めるかたわら、島歩きを開始する。その成果が本書『海と島の思想―琉球弧45島フィールドノート』なのである。
 話が後先になるが、わたしが第一在島時代の青ヶ島でハガキによる個人通信『でいらほん通信』を出したのは、野本さんの『生活者』の影響を受けている。ただし、ハガキ方式になったのは、当時、青ヶ島村長をしていた故・奥山治さんの影響だ。治村長は毎年、年賀状を1,000通以上、国政・都庁関係者に出していたが、ハガキの片面に謄写刷りで700〜800字をギッシリ書き込む形態になっていた。わたしが役場職員になる前は奥山喜久一さんが担当していた。
 11月の末、村長から集計用紙に鉛筆で走り書きした、ひじょうに読みにくい草稿が渡される。それを読んだあと、「百字削ってください。ここの部分を直してください。こう、書き直してください。こう、直しますよ」などと5〜6回ほどヤリトリしたあと、鉄筆でガリ切りをする。当時、産経新聞の記者だった海野和雄氏(のち時事通信へ移籍)は、この青ヶ島村長の年賀状を“紙爆弾”と名付けていた。それは「賀正。…」から始まり、「お年玉付き年賀状」に刷られている点ではたしかに“年賀状”だったが、都庁幹部からは“青ヶ島村長からの年頭の陳情書”と呼ばれて恐れられていた。というよりも、「青ヶ島村長からの年賀状を読まないと、新年を迎えた気にならない」とまでいわれた迫力あるものだった。年賀状・陳情書・年頭所感・施政方針・夢…等々を兼ねた、奥山治村長のユートピア的“政治哲学”を記した檄文・アジテーションだった。都庁職員の中には他の年賀状は1年経てば捨ててしまうが、青ヶ島村長のは捨てられないと言って、ぼくの知らない時代の年賀状を見せてくれた職員もいた。そして、驚いたことに、池之沢の地熱サウナやヘリコミ等々…の、当時の島民からも「絵に描いた餅」と揶揄された“夢”がすべて実現していることである。治村長の時代に実現したわけではないが、その意味では“紙爆弾”はマニフェスト実現率100パーセントの起爆剤になったわけである。そのハガキの中に700〜800字を放り込む形式を真似たわけである。

 (3)ところで、野本三吉さんは『海と島の思想―琉球弧45島フィールドノート』の286ページに、先年、亡くなられた写真家の比嘉康雄氏の写真集『神々の古層』全12巻(ニライ社)の[5]「主婦が神になる刻 イザイホー〔久高島〕」(1990年)の「久高島の世界観・宇宙観」と題する序文を引用している。
「久高島はクニと言われ、完結した島共同体という認識がある。特に祭祀の世界では今でも顕著である。首里王府以前は完全に独立していたことは言うまでもない。独立していたということは自給自足もできていたということである」(『神々の古層』5「主婦が神になる刻」五頁)
 じつは、わたしは『神々の古層』の[1][2][5]の三巻について、『月刊アーガマ』No.119(1991年3・4月合併号)に書評を書いている。当時、わたしは同誌に「神道の諸問題」と題する連載書評コラム欄を持っていて、その17回目として『神々の古層』の久高島に関する3冊を取り上げたのである。その中で、わたしは次のように書いた。
「久高島の「イザイホー」は、まさに、主婦が神になるための神事なのである。表面上は神女(女性神職)の資格を取るための儀式ということになるが、神女はたんなる主婦ではなく、「イエ」レベルの、そして「シマ」レベルの、さらには「クニ」レベルの神々を祀り、そこに住む男たちや子供たちを守る現人神になるのである。しかも、琉球古神道にあっては、ほとんど祭祀に介在することができないのだ。すなわち、邪馬台国の卑弥呼や、伊勢神宮の斎宮だった倭姫を彷彿とさせる古代の光景が、ここには展開されているわけだ。そして、天理教の中山みきや、大本の出口ナオなどの女性教祖たちがどうして出現してきたのか、という理由も、この三冊を眺めていると、おのずとうなづけてくるのである。あえていうなら、現人神が祭祀をしないかぎり教えも出てこないのである。
 この三冊の著者である比嘉泰雄氏は、人を寄せ付けないほどの気迫のこもった、神々しいほどの神女たちの姿を捉えるばかりでなく、女たちの日常のやさしい表情も撮る。遠くから祭りを眺める男たちの真剣な表情。そして、ふだんの生活ではおそらく関白亭主であっても、祭りのときには妻を神として遇する夫たちの表情。そうした落差(?)ある躍動感を、比嘉氏は果敢に描き出す。まさに、〈神々の古層〉そのものだ。」
 比嘉氏の写真も文章も、とても良かった。しかし、実をいうと、何となく、しっくりしない感情も残った。わたしはそれがどこからきているのか、わからなかった。だが、今回、野本さんの本を読んで、その場所というか、原因がわかった。野本さんが引用している箇所の、比嘉氏の〈クニ意識〉に対する認識のズレに起因するものだった。
 たしかに、久高島の場合、琉球王朝に従属する最高聖地であると同時に、琉球王朝の統治からも半ば独立した聖地として意識されたようである。その地平から〈クニ意識〉が芽生えたのかもしれないが、〈クニ〉=〈完結した島共同体〉という認識は、ちょっと危うい思考ではないかと思ったのである。おそらく、そこには、国家に全面的に屈服するか、あるいは、その逆に自らが国家になろうとする意識の内面性があるのではないか、と考えられるからである。
 最高聖地だから琉球王朝のシマから独立(超越)した存在である、ということでの〈クニ〉意識なら理解できるが、〈完結した島共同体〉がクニであるという認識は国家の論理に絡めとられる可能性がある。「首里王府以前は完全に独立していたことは言うまでもない」ということは言えるし、わたしもそうだと思うが、「独立していたということは自給自足もできていたということである」と結論付けるのは言い過ぎではないかと思った。なぜなら、自給していなくても、周辺の島々との交通、神々どうしの交流、すなわち、人びとの交流という、いいかえれば、天の産霊(むすび)の結びのムスヒの御術(みわざ)によって《天給》されれば、自給は独立の条件ではないからだ。
 わたしは〈クニ〉よりも〈シマ〉のほうが霊性が高いと思っている頑固者だが、故・比嘉氏の思考は〈島共同体〉を〈国家〉へ昇格させ、そこに住む神々と人びとを〈完結した島共同体〉という名の〈クニ〉、じつは、〈国家〉に縛りつけようとする論理から発しているように感じた。少なくとも、「首里王府以前」においては、久高島だけではなく、他の島々、否、他のシマジマも「独立」していたはずである。その意味では〈横並び〉のはずである。
 じつは、野本さんの本を読んで強く感じたのは、シマジマが〈横並び〉であり、神々もまた〈横並び〉の、〈独立〉した状況にあった、ということである。野本さん一行の〈御神業〉のフィールドノートは、そのことを語っているように、わたしには思えた。ウツナーも、ヤマトゥも、〈完結した島共同体〉であってはならず、神々にみそなわれし横並びの天給のシマ共同体でなければならないと思うのである。


 
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