目 次
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21 フーテンの寅さん所縁の柴又は、正倉院御物「養老五年(721)下総国葛餝郡  大嶋郷戸籍」の「嶋俣里」に発します
22 島を意味する諸言語の表
23 少子化・人口減の原因は市町村合併による村潰し・島潰しにあり
24 オロロン鳥は悲しく啼き、そして浅之助は…!
25 政治の季節と地方という霊性 ーもちろん島からの視点ー
26 <硫黄島>の呼称変更への疑義
27 野本三吉著『海と島の思想―琉球弧45島フィールドノート』(現代書館、2007年)を読んで
28 再び「佐々木卯之助砲術稽古場」について
29 再び川崎市・市ノ坪の「鬼ヶ島」について
30 〈島〉という聖域が危うくされている
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28  再び「佐々木卯之助砲術稽古場」について
2007.09.01
 

 昨年の「ことのあとさきのこと」(May.2006) の中で、『新篇武蔵風土記稿』(巻之五十六 荏原郡之十八 品川宿 北品川宿)の項にある「佐々木卯之助砲術稽古場」について、次のように指摘した。
「塙次郎拝借地ノ東隣ナリ二段三畝十九歩半昔ヨリ空閑ノ地ナリ享保十二年砲術練習ノ地トナリ其後中絶シ安永七年旧ニ復ス例年三月小屋及人留矢來_等ヲ官ヨリ修理セラレテ稽古場ニ渡賜ハリ七月ニ至テ非常ノ事アレハ総テ宿内ノ進退ニヨレリ」
 この塙(はなわ)次郎拝借の地(鳥屋横町)の場所について、わたしは、おそらく「京急北品川駅と同・新馬場(しんばんば)駅、そしてモノレール天王洲アイルを結ぶ辺りにあるもの」と推定した。しかし、8月29日(水)午後、品川区大井6丁目の品川区立「品川歴史館」を訪ねて調べてみてもらったところ、この「塙次郎拝借地」は品川区北品川1丁目2番〜4番あたりに該当することがわかった。そこで早速、自転車に乗って現地を訪ねてみた。
 じつは、数年前、この周辺を本HPの管理人である吉田吉文氏と歩いたことがある。そのときは南品川1−1−1の妙蓮寺に眠る盲人代議士・高木正年(たかぎ・まさとし、1857〜1934、青ヶ島の佐々木初太郎名主に協力して小笠原航路の青ヶ島寄航に尽力、沖縄の民権家・謝花昇の協力者)の墓を参拝した帰りの散歩だった。この「塙次郎借地」は現在の京急・北品川駅の辺りと推定されるが、駅のすぐ裏側(東側)が北品川1丁目2番で、その東側に旧東海道がほぼ南北に走っている。
 
 しかし、この北品川1−2が「佐々木卯之助砲術稽古場」だとすると、3月〜7月(もちろん旧暦)の季節限定とはいえ、道路に鉄砲玉が飛んでこないともいえないわけで危険極まりない。ところが、同じく北品川1丁目の3番〜4番にかけての土地はゆるい斜面になっていて、八つ山通り側ならほとんど危険性がない。崖が邪魔して旧東海道には届かないのではないかと思われる。しかも、その東側には旧江戸湾の海の名残があって、現在も遊漁船が舫っている。いずれにせよ、品川区北品川1丁目2番〜4番、あるいは、その周辺が「佐々木卯之助砲術稽古場」であったことは確実だ。
 ここで注目すべきは「塙次郎拝借地」が「鳥屋横丁」の別名を持っていることだ。おそらく、海は近いが「漁師」ではなく「猟師」が住んでいたのではないかと思われる。さらに、「佐々木卯之助砲術稽古場」が開かれた期間が〈3月〜7月〉という季節であることだ。すなわち、稲作に従事する期間である。じつは、江戸時代は、稲作にはあまり適しないが無理をすれば稲作可能な土地を、貧民が無税で耕作できる場合があった。そのことを考えると、同地は耕作させないために「砲術稽古場」にされていた可能性がある。おそらく、「猟師」に耕作させたくなかったのではあるまいか。
ちなみに、この佐々木卯之助は、幕府の大筒役で藤沢宿・茅ヶ崎の鉄砲場の、空閑地での百姓の耕作を黙認して天保7年(1836)青ヶ島に流された佐々木卯之助(1795〜1876)の祖父であったと思われる。詳しくは「ことのあとさきのこと」のDec.2004とMay.2006を参照していただきたい。


「佐々木卯之助翁顕彰除幕式」(1968年.青ヶ島村)
 
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