|
25 政治の季節と地方という霊性 ―もちろん島からの視点―
|
2007.03.05
|
|
政治の季節がやってくる。否、選挙の季節が到来する。東京都知事選に象徴される4月の統一地方選挙と、それを前哨戦と捉えている7月の参議院議員選挙。統一地方選挙の“統一率”は、戦後も60年を超えたことや、さらに最近の市町村合併などの影響で、20%を割り込んでいて、最早“統一地方選挙”の名前に価しないのではないか、ともいわれている。ちなみに、この7月の参院選は青ヶ島の視点から言うと、昭和31年7月8日、青ヶ島が国政選挙に初めて投票できるようになって51年目にあたる。
しかし、これから述べようと思うことは、そういう話ではない。村よりも町、町よりも市、市よりも都道府県、都道府県よりも国の段階での選挙の当選者のほうが偉い存在だ、と考えがちの世間一般の俗論について、である。といよりも、政府与党を代表する衆議院議員も、そう考えているらしい。たとえば、2月4日投開票の愛知県知事選と北九州市長選挙では、与党系が愛知では僅差で勝ち、北九州では野党系が勝利したが、前記の御仁は「知事と市長では重みが違う」と仰せになった。そこまで言うのなら、県並みの権限が与えられている政令指定都市の制度を廃止すべきである。
かつては現職の国会議員がその名誉ある職を辞して、知事選挙や、ましてや市長選挙に立候補することは、自ら「格下げ」になることを志向することであり、同僚議員たちから馬鹿にされる行為だった。そうした中で、昭和38年、日本社会党の衆議院議員だった飛鳥田一雄(あすかだ・いちお、1915〜90)は議員を辞職して、横浜市長選挙に立候補し当選した。代議士時代は左派社会党の論客だったが、市長当選後は全国革新市長会を組織し、その一方で今日の横浜の形を作るなど、14年間の市長在任時代、従来の保守系の市長がやれなかったこともやり遂げる成果を残した。ところが、日本社会党の人材不足で横浜市長在職のまま委員長に引っ張り出されてしまうが、ジャーナリズム唱導の世間様の俗論と、与野党談合の「公党の党首が国会の議席を持たないのは、いかがなものか」という理論によって市長職の辞職へ追い込まれてしまう。すなわち、きのうまでは「国家の中央集権的政治」を批判し「地方の時代」を主張していたマスコミの、「地方政治家が中央の政党の党首をしていることは、議会制民主主義に反する」という主張によって、全国革新自治体の象徴の座から引きずり降ろされてしまうのだ。しかも故・飛鳥田氏は、おそらく与野党“談合”の阿吽の呼吸によって選挙区を、横浜から中選挙区時代の首都東京の顔≪東京1区≫へ移されてしまう。
だいたい、当時の日本社会党は、飛鳥田氏は若干、別だったらしいが、政権を取る気はまったくなく、いわゆる55年体制とは名ばかりで社会党は自民党の補完物として、甘い蜜の残り汁を舐めようとする連中ばかりがいる政党だった。ましてや離島振興や離島行政に真剣に取り組もうとする人は皆無だった。日本社会党は飛鳥田氏を横浜市長から引きずり出し、引きずりおろすことで、その時点での近未来の自己ポアを確定させたわけである。
ところで、小泉チルドレンが衆議院に大量に登場する平成17年9月の衆院選挙のとき、わたしは比例区(東京)では新党日本に投票した。それは新党日本のマニフェストや党首の田中康夫氏に賛成したからではない。当時の田中氏は現職の長野県知事だったが、ジャーナリズムや当時の衆議院議員(厳密にいえば前議員たち)がこぞって「現職の知事が国政を担当しようという政党の党首に就任するのは、いかがなものか」と喧伝したからである。飛鳥田氏のときもそうだったが、野党系の現職の地方政治家が国政を目指す政党の党首に就任することは、どうやらいけないことであるらしい。政治家の中では国会議員が一番エライからである。その論法に国民はマインドコントロールさせられているのだ。
わたしの考えでは、知事や政令指定都市の市長ばかりでなく、極端に言えば、青ヶ島の村長や村会議員が党首であっても良いではないか、と思うのである。もちろん、青ヶ島の部分を同じく伊豆諸島の利島や御蔵島や、あるいは、新潟県岩船郡粟島浦村、大分県東国東郡姫島村や、沖縄県島尻郡渡名喜村、そして東京都小笠原村や鹿児島県鹿児島郡三島村、十島村…等々に置き換えてもよい。とうぜん、その他の、できれば人口規模が小さな自治体の首長や議員であってもよい。テレビ電話やインターネットの普及で、会議は直接、顔をつきあわせなくてもできる。どうしても党首に会わなければならないのなら、国会議員のほうが村を訪ねればよいのである。国会に議席を有しない人が中央の政党の党首になると、議会制民主主義に反するというのは、地方政治の軽視の契機がそこに含まれている、といえないだろうか。
国会議員たちが「いかがなものか」というのなら、彼らにたいし「そういうあなたがたこそ、いかほどのものか」と、わたしは言いたい。民主主義というのなら、地方を大事にしなければならない。「美しい国」を創るには、まず地方から始めなければならない。そして、弧状列島の底津岩根の島の根が海上に現れている「島」にこそ「美しさ」の原点があると思うのだ。
国会に議席を占める政党は一年に一日ぐらい、党首の座を地方政治家に儀式的でなく「一日党首」として全面的に移譲させて「地方」の重要性を認識したほうがよい。己が「いかほどのものであるか」ということを認識しない連中が「いかがなものか」を連発するわけだが、わたしに言わせれば、そちらのほうが「いかがなものか」なのである。想うに、地方の典型としての島はシロシメス王道の地であり、いっぽうの中央はウシハク覇道の地である。国会議員の先生方には地方の典型としての島を知ってもらい、政治家としての霊性を磨いてもらいたいものである。
|
|