目 次
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21 フーテンの寅さん所縁の柴又は、正倉院御物「養老五年(721)下総国葛餝郡  大嶋郷戸籍」の「嶋俣里」に発します
22 島を意味する諸言語の表
23 少子化・人口減の原因は市町村合併による村潰し・島潰しにあり
24 オロロン鳥は悲しく啼き、そして浅之助は…!
25 政治の季節と地方という霊性 ーもちろん島からの視点ー
26 <硫黄島>の呼称変更への疑義
27 野本三吉著『海と島の思想―琉球弧45島フィールドノート』(現代書館、2007年)を読んで
28 再び「佐々木卯之助砲術稽古場」について
29 再び川崎市・市ノ坪の「鬼ヶ島」について
30 〈島〉という聖域が危うくされている
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29  再び川崎市・市ノ坪の「鬼ヶ島」について
2007.09.23
 
 昨年(平成18年)3月の《島風とシマ神》17に、わたしは「幻の鬼ヶ島(神奈川県川崎市中原区市ノ坪)を探しに行く」を書いた。そのときは、この“鬼ヶ島”の所在地を、「府中街道沿いの中原区市ノ坪581の、「市ノ坪住宅」の標識のある付近ではないか」と推測した。しかし、先ごろ(9月18日)午後、中原区溝口1−6−10の川崎市教育委員会文化財課の中にある「日本地名研究所」へ出かけて調べていただいたところ、府中街道を挟んで「市ノ坪住宅」とは逆(北)側に位置していたらしい(地図参照)ことがわかった。
 
 そこはJR南武線の平間駅と府中街道に挟まれた土地で、現在は三菱自動車健康保険組合平間会館(三菱自動車工業グラウンド)などがある。住所表示的には、市ノ坪682番地(一般住宅)〜710番地(三菱自工)が“鬼ヶ島”の推定地である。すなわち、わたしの推測は“当たらずといえども遠からず”だったわけである。


 ところで、地名研究所でいただいたコピー資料によれば、市ノ坪の「地名の由来」は、つぎのようである。
「古代律令制度の、班田のための条理制区画の遺称と考えられる。条里制では1町四方を1坪とし、6×6町の区画に1ノ坪から36ノ坪まで通し番号を打った。関西にはそのような坪地名が現在も多数残っているところがあるが、この『市ノ坪』も『一ノ坪』の表記変化した地名と思われる。とすると古代のこの中原区の地域に条理区画が施されて水田耕作が行なわれていたことがうかがえるわけで、貴重な残存地名と云える。」
 だが、昨年3月の《島風とシマ神》でも指摘したように、『新篇武蔵風土記稿』巻之六十五橘樹郡八の「市ノ坪村」の項によれば、「土症ハ眞土ニ砂交レリ水田多ク陸田少クヤゝモスレハ水損ノ患アリ…民家ハ四十九軒アリ村内ニ散住セリコノ村舊キコト傳ヘス元ハ鹿島田村ト一村ナリ…」とある。じつは「コノ村舊キコト…」以降の部分は遠慮がちの指摘となっているが、多摩川の氾濫で、すぐ「水損ノ患アリ」という地勢を考えると、古代条里制の「一ノ坪」に起源しているようには思えない。
 同地周辺の多摩川には、丸子(中原街道の丸子橋の付近)、平間(ガス橋の付近)、矢口(第2京浜の多摩川大橋に付近)の、三つの渡しがあった。東京都大田区池上5丁目のわが家のすぐ北側を東西方向に、今はまったく忘れられている「稲毛道」が走っている。そこを西へ向かうと、現在の千鳥、下丸子、鵜の木が交差する地域に至るが、ここから平間と市ノ坪は至近距離である。つまり、市ノ坪は、かつての交通の要衝の地と考えたほうがよい。おそらく、その要衝の地の祭りのとき、“市”が立ったのであるまいか。これはまったくのわたしの推測に過ぎないが、市の“坪”神に由来しているのではないだろうか?
この「市ノ坪村」の中で「鬼ヶ島」は多摩川の流れに最も近い南東(巽)に位置している。もちろん、江戸時代はちょっと大雨が降れば「水損」の可能性があった土地である。とくに、「鬼ヶ島」及びその周辺はそうであったと思われる。
 かつて地名研究所の調査員が行なった「聞き取り」によれば、「鬼ヶ島」のオニガ語源はオニゲ(お逃げ)の義で、「水が逃げる」ことができる〈水はけ〉があったからだという。川の流れが残した自然の溝などを利用して、周りを掘って囲めばまさに〈島〉状の土地になる。とうぜん、逆に〈島〉を囲む堀(溝)から水を引くことも可能だ。そうしたある種の排水設備のあるオニゲの「鬼ヶ島」であったのかもしれない。
 だが、そうした〈島〉も、ひとたび多摩川が氾濫すると水没し、あたかも〈島〉が“お逃げ”の状態になってしまうこともあるだろう。もしかすると、そうしたことから名付けられたのかもしれない。いずれにせよ、そのような土地で耕作することは低く見られたはずである。あるいは、市ノ坪村の住人が水害などで困窮したとき、家計が回復するまで一時的に住んで耕すという村共同体の〈困窮島〉的な〈お逃げ〉のシマだったかもしれない。
 わたしのように、「鬼ヶ島」という名称に出くわすと、ただ、それだけで、そこがきっと〈霊性〉の高い島(土地)であり、それゆえに崇拝、敬愛、すなわち崇敬の対象になりうる、と考える人は稀であろう。世間の常識人は「鬼ヶ島」という名前を見たり聞いたりすると、その多くは卑下の対象とするのだ。すなわち、世間では「鬼ヶ島」を蔑称・卑称と理解しているのだ。たとえ、市ノ坪の「鬼ヶ島」の語源がオニゲであっても、「鬼ヶ島」が聖性の視点ではなく、賤性の視点から見られていたことは、おそらく確実であろうと想われる。
 ところで、市ノ坪の「鬼ヶ島」のほとんどは三菱自動車が占めているが、平間駅でJR南武線と交差する通称「ガス橋通り」沿線には、中原区西加瀬の三菱自動車工業東京製作所、同じく大倉町の三菱ふそうトラック・バス川崎製作所などの関連事業所が並んでいる。それというのも、平成13年(2001)に撤退するまで多摩川をはさんで東京側の大田区下丸子には三菱自動車工業の丸子工場があったからである。この工場用地は昭和9年(1934)三菱重工業の神戸造船所の自動車事業を移転させるために用意されたもので、昭和11年2月16日、年間3,000台のトラック・バスの製造を目標にスタートした。戦後は財閥解体で三菱日本工業となり、わたしが小学校の低学年のころは、朝鮮戦争の影響か、工場周辺にはMPが立ち、多摩川の土手から工場敷地を覗き込むと、おそらく修理中の米軍の戦車もあったのではないかと記憶している。また、国鉄(現JR)の貨物線のものか、東急目蒲線(現・多摩川線)なのか、わからないが引込み線もあったように思われる。昭和35年(1970)三菱重工業から独立して三菱自動車工業となったが、トラックやバスだけではなく、キャタピラーやブルドーザーも生産していたのではないかと思う。
 ガス橋は川崎市側の上平間と大田区側の下丸子を結んでいるが、その名は東京瓦斯のガス管の上に橋が設置されたことから起こっている。昭和6年(1931)9月に開通したが、その正式名称は「瓦斯人道橋」で、その名のとおり、人がやっと一人通れるくらいの幅しかない狭い橋だった。わたしが小学生のころは昔のままで自転車も降りて押して渡らなければならなかった。現在のように自動車が通れる「ガス橋」になったのは昭和35年(1960)からだが、三菱自工だけではなく、キャノンや北辰電機製作所(昭和58年、横河電機製作所と合併、その後移転)、白洋社などに多摩川を越えて平間駅から徒歩で通勤する神奈川県民も多かった。急に蘇ってきたわたしの乏しい記憶を辿ると、「鬼ヶ島」の場所には三菱の従業員寮があったのではないかと思う。
 ちなみに、わが東急池上線・池上駅前には三菱東京UFJ銀行池上支店があるが、三菱銀行池上支店として開設されたのは下丸子の三菱重工自動車工場の操業にあわせてのことだったといわれている。その意味では、神奈川県川崎市中原区市ノ坪の幻の「鬼ヶ島」も、ある種の地縁があることになる。さらに、現在の下丸子の地域は旧・蒲田区に属するが、三菱自動車の丸子工場があった土地は「鵜ノ木」が少し入り込んだ大森区調布嶺町2丁目なのである。すなわち、わが住所に程近い「武蔵国荏原郡鵜ノ木村飛地・奥嶋(のち沖島)」と、「武蔵国橘樹郡市ノ坪村鬼ヶ島」はやはり、どこか相似象の関係にあるように思えるのだ。とくに、多摩川をはさんで川崎市側と大田区側の上丸子・下丸子、古市場・平間の周辺地域では明治45年3月までは川崎市側に荏原郡が、大田区側に橘樹郡が入り込んだところも多く、まさに多摩川の流れ次第で変化する“水損”の地であったのである。「鬼ヶ島」はその象徴的存在だったと思われる。
 
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