目 次
30
31 《八郎》子と源為朝
32 英語のislandの語源
33 〈シマ・ウッナー〉カイエ(1)
34 〈シマ・ウッナー〉カイエ(2)
35 還住(かんじゅう)と還住(げんじゅう)
36 息津嶋神・葛嶋神・坂代神という三島〈三宮〉構造
37 八丈嶋の「わきしま」鬼が嶋の〈五種+α〉神宝
38 都議補選(島嶼部)の開票結果と普天間の問題
39 村有地に建つ青ヶ島の神社
40 青ヶ島が奪われる?
41
40  青ヶ島が奪われる?
2010.05.06
 
 4月29日付けの『朝日新聞』の39面に、“「みる・きく・はなす」はいま”(計5回の連載予定)の第1回目の「扇動社会(1)」として、「外国人が島奪う」と題して青ヶ島のことが大きく取り上げられた。それを知ったのは遅ればせの5月4日の夜だった。何しろ、生れてこの方の、かつては大の朝日新聞の愛読者だったが、皇太子妃・雅子様のご懐妊騒動の時の記事に嫌気が差して購読を止めて、もう久しいからである。
 そこで図書館へ出かけて、その記事をコピーした。こうして、二度ほど読み返してみたが、朝日新聞が何を言いたいのか、よくわからなかった。仕方なく、中立的判断のできる友人へFAXで送り、その感想を聞かせてもらった。実に、明解な返事が戻ってきた。
 「要するに、外国人地方参政権法案が成立すれば、全国最小村の青ヶ島村は外国人に乗っ取られる。そうした危険性を右翼がブログで指摘し、それを読んだネトウヨが青ヶ島村役場をはじめ、伊豆諸島・小笠原に参政権反対メールを送ったことを、右翼の過剰な“扇動”によるものとして批判しようというのが『朝日』の言いたいことです。」
 朝日の記事によれば、今年1月、青ヶ島村役場には《国家存亡の危険》《外国人に占領される》等の内容の外国人の地方参政権に反対するメールが殺到し、2週間、届くメールを削除するのに忙しかったという。
 朝日新聞は「国土が侵略される」という話じたいを、右翼勢力による「扇動」と見ているようである(詳しくは4月29日付の朝日新聞の該当記事を読んでいただきたい)。しかし、そういう可能性はあるのかどうか、もっと真剣に議論してもよいのではないかと思う。わたしなどから見ると、今までは、保守も革新も、左翼も右翼も、国防という視点で島に関してはまったくといってもよいほど関心を持ってくれなかったからである。
 わたしは民族派が対馬に関心を持ち始めたころ、現在、外国人参政権反対運動を盛んにしている人びとに、青ヶ島のことを話そうと思ったが、なぜか聞く耳をもっていただけなかったという苦い経験を持つ。いろいろな問題について、青ヶ島の視点を入れると、もっと広い視点から見ることができるようになると言いかけると、左右を問わず、「それは島国根性ですよ」「インターナショナルじゃあない」「もっとグローバルな視点に立たなければ…」「国際的視野が必要ですよ」などと言われ続けてきた。
 ぼくに言わせれば、それらの言葉はそのまま熨斗を付けてお返ししたいくらいだが、どうも、そこに民主主義の多数決原理が働いてしまうらしく、ここ30年くらい不動の全国最小村の青ヶ島の名前を出しただけで、話の腰を折られて拒絶されてしまうのである。
 過日、たまたま本多勝一『民族と国家、そして地球 貧困なる精神M集』(1998年6月)を読んでいると、鎌田慧氏との対談の中で、本多氏は「私はいま『朝日ジャーナル』(注1)のノンフィクション賞の審査員をやらされているんですが、応募作品はやたら外国のものが多い。国内にいろいろ問題があるのになんでやらないのだろうかと思う」と嘆いている。
 本多氏によれば、ルポライターを名乗る人が極端に減少し、ノンフィクション作家となり、新聞記者も国内の現場へ行かなくなってしまったのは、国内の現場へ行くと御用役人や大企業がいて、彼等とぶつかるからであるという。おそらく、それは正しい事実と思われるが、国内の問題をやると、やれグローバルじゃあない、インターナショナルじゃあない、国際的視野にかける、と言って非難する世間の風潮がある。もちろん、そういう風潮を操っている存在が想定されるが、実は、右翼も左翼もここでは仲良くミクロ(実はマクロ)なことを議論しようとすると無視するのである。
 平成2年(1990)5月、オウム真理教が熊本県阿蘇郡波野村(平成17年2月11日、阿蘇町、一の宮町と合併し現在は阿蘇市)へ進出した。ぼくが青ヶ島村の助役に就任したのは、その年の9月下旬のことだが、事件は11月ごろまで引きずっていたと思う。そして、助役になったばかりのぼくは、波野村を青ヶ島村に置き換えて考えた。というよりも、助役になる以前から、カルト教団が大挙して住民登録をする場合、どうするか、ということが気になり、宗教関係者(宗教評論家、ジャーナリズム、教団)の何人かの知人に話をしたことがあるが、まったく興味を持ってもらえなかった。
 このオウムの問題と今回の問題には通底するところが多いと思われる。というよりも、同じ構造の問題だと思う。仮の話だからいけないというのであろうか。
 実は、「島が外国に奪われる」という危惧は、ずっと以前からのものである。昭和45年(1970)12月26日夜、ソ連の科学調査船の乗組員2名が青ヶ島へ無断で上陸するという事件があった。海洋調査なのか漁業調査なのか海底の資源調査(注2)なのか、そのへんはわからないが、EEZの概念すら日本にはまだなかった時代である。わが国ではまだ領海3海里(現在は12海里)のころである。
調査船の「キャップのウラジミール・アンドレビッチ・コザックは島の近くでゴムボートを操っている最中にオールを波にとられ、海岸に泳ぎ着いたが、足にけがをしたので手当をしてほしいと申し出た。村長は東京へ出張中。国際的な問題に関することでもあり、当時の駐在(永田巡査)は、八丈署を通じて警視庁を通じて警視庁と連絡をとった。二十七日朝、島の近くに碇泊中のソ連船から機関士コズロフが上陸、コザックの安否をただした。結局ソ連人二人は、島へ派遣された巡視船に一まず収容され、事情聴取の上で、ソ連船へ送り届けられた」(小林亥一著『青ヶ島島史』緑地社、昭和55年)。
 この間の2日間、ソ連人は青ヶ島に滞在したのである。そして、この本には記載されていないが、奥山治村長は警視庁の緊急ヘリで急遽、帰島したらしく、その際、2名を連れて島内を案内したようである。(注3)
この事件は、役場職員となるため、青ヶ島へぼくが渡る5ヵ月前の事件である。テレビでも少し報じられたので、よく憶えているが、そのときはこの青ヶ島へ住むようになるとは思ってもいなかった。いずれにせよ、ソ連による領海侵犯事件である。どう見たって、国際法上の緊急避難にはあたらないのである。
 当時70〜80歳の青ヶ島の老人たちは、この事件について、ソ連船は青ヶ島が無人島かどうか、確かめるために上陸してきたと語っていた。怪我なんかしていなかったという。あるいは、家の灯火が少しは見えたはずだが、からかい半分に上陸してきたにちがいない、本当は青ヶ島がほしいのだ、と言っていた。これはおそらく正しい認識だ。
 そこで、青ヶ島のような島は「外国」から狙われている、というような話を、いろいろな人に話をしようとしたが、何度も言うように相手にされなかった。EEZが巷の話題になるようになって、青ヶ島が天明の大噴火にめげず50年間の還住事業を成し遂げたからこそ、小笠原諸島も米領にならず復帰でしたし、沖ノ鳥島へ通じるEEZが今日あるんだというようなことを言っても、ただ青ヶ島至上主義の島国根性としか思われなかったのである。これは右も左も同じである。
 朝日新聞の記事は天上から青ヶ島を覗いただけのようなイメージがあるが、ここで、「外国人が島奪う」ことに危惧される方に、ぜひとも、お願いしたい。ぜひ、青ヶ島へ渡って住民登録をし、青ヶ島村民になって青ヶ島で働いてほしい。そして、そういう人を支援するため、毎週何人かが観光でもよいから青ヶ島へ渡って、「外国人」に島が奪われないように監視し、青ヶ島のことを多くの人に語ってほしい、ということである。実は、青ヶ島には、最近、青ヶ島の伝統文化について興味を持っている外国人が來島するようになっているらしい。その人たちは奪うためにやってきているのではないので、そこは勘違いしないでもらいたい。

(注1)『朝日ジャーナル』は1992年(平成4年)5月29日号を最終号として休刊。ちなみに、同誌の1971年(昭和46年)2月19日号の《増大号・私にとっての国家》の懸賞論文に、ぼくの「あえて離島・辺境に立つ」が入選、掲載されている。そのことが一つのきっかけとなって、その年の5月、青ヶ島へ渡ることになる。
(注2)崩壊する以前のソ連邦は、日本海の海底資源調査を一番、行っていたらしい。当然、その資料は財産として現ロシアに継承されている。その流れでEEZが確立する前、太平洋側も調査しようとしていたと考えられる。
(注3)故・小林亥一氏も書いているが、ソ連人2名はヘリに吊り下げられてソ連船へ戻った。当時のテレビを見たときの記憶では、ソ連人を巡視艇で事情聴取したのは横浜入管で、その入管職員を警視庁がヘリで運び、村長はそのヘリに便乗したのではないかと思われる。
 これには後日談があって、青ヶ島での2日間を体験したソ連人船員が島民の歓待ぶりをソ連政府へ報告したところ、ソ連大使館から村長へ「お礼」の言葉があり、上京したら狸穴の大使館へ寄ってほしい、と伝達されたようである。一種の外交儀礼だったらしいが、村長はしばしば大使館を訪問し、丁重なる扱いをうけたらしい。当時、美濃部都政時代でもあり、青ヶ島のことを親身で聴いてくれるのは、美濃部都政の純粋与党を自称する日本共産党東京都議会議員団ということもあって、村長の大使館訪問は公安調査庁か警視庁公安部の監視対象になっていたらしい。故・奥山治氏の名誉のためにも言っておくが ―相手がどう思っていたか判らないが― 日共のシンパですらないのである。
 在島中からぼくの第1次在島時代(昭和46年5月〜49年1月)の青ヶ島体験を本にしようと申し出てくれた出版社がいくつかあったが、昭和48年のオイル・ショックで、全て泡沫の夢と消えた。それから若干の月日が流れ、角川春樹氏が古代船《野性号》を「もう一つの海上の道」であるマリアナ諸島→小笠原諸島→伊豆諸島というルートで航海させたい、との話が持ち上がり、角川氏の代理人という人と会って話をしたことがある。そのとき青ヶ島がキーポイントになる、ということだった。そのとき、わが体験記のことを話したら、それも引き受けたい、と快く申し出てくれた。ところが、話はそれっきりだった。
 平成13年の何月だったか、ある会合で突然の挨拶を要請され、島一般について話すと、終了後、一人の紳士が歩み寄ってきて名刺交換をした。その人が言うには、自分は角川春樹氏の代理人と称した人物の上司で、ぼくに会うのは今日が初めてだが、あの話が全部立ち消えになったのは公安当局の横槍だったというのである。すなわち、前記の話は、このときの情報である。彼はそのときは「たいへん申し訳ないことをしました」とのことだったが、ちなみに、ぼくの青ヶ島体験記はいまだどこからも実現されていない。


 >>HOMEへ