目 次
30
31 《八郎》子と源為朝
32 英語のislandの語源
33 〈シマ・ウッナー〉カイエ(1)
34 〈シマ・ウッナー〉カイエ(2)
35 還住(かんじゅう)と還住(げんじゅう)
36 息津嶋神・葛嶋神・坂代神という三島〈三宮〉構造
37 八丈嶋の「わきしま」鬼が嶋の〈五種+α〉神宝
38 都議補選(島嶼部)の開票結果と普天間の問題
39 村有地に建つ青ヶ島の神社
40 青ヶ島が奪われる?
41
35  還住(かんじゅう)と還住(げんじゅう)
2008.10.04
 
 YAHOOとGoogleの2つの検索エンジンを利用して「還住」を検索すると、10月2日現在で前者が約476,000件、後者が約182,000件ヒットする。その大半が青ヶ島に関するもので、さらに、そのほとんどが八丈島の八重根港と青ヶ島の三宝港を結ぶ還住丸のことである。すなわち、「還住」といえば青ヶ島を表現する言葉といえるほどなのである。
 この「還住丸」が就航したのが平成4年1月16日。名付け親は、当時、役場職員で現在は北海道旭川市に住んでいる芳賀春美さん。選定委員会は、その前年の4月30日、村議会の全員協議会として開かれた。平成3年5月5日発行の『広報あおがしま』には、次のようにある。
「青ヶ島村では、村営連絡船の伊豆諸島開発への移行にともなう新造船(伊豆諸島開発所有)の名称と船体色の募集を行ってきました。
 四月三十日、村議会の全員協議会で、船名は二十四点の応募作の中から「あおがしま丸」と「還住丸」の二点に絞られた結果『還住丸』に、船体色は公募十二点の中から『白を基調にスカイブルーの稲妻とストライブを入れたもの』に決定しました。」
 この記事はわたし自身が書いたものだし、助役として選定委員会の進行役を務めたこともあって、今でもその時の経緯を覚えている。実は応募作には「新あおがしま丸」とか「新あおがしま」などが複数点あったのだが、結局1点の「還住丸」が選ばれた。それは村議6名のうち4名が昭和40年代後半、「青ヶ島を無人島にするな! 青年よ、第2の次郎太夫になろう!」との故・山田常道氏(当時、小学校教頭。のち村長)の呼びかけに応えてUターンという名の“還住”をした人たちであったからだ。「還住」というコトバに思い入れがあるため、1点しかない「還住丸」が当選したわけである。
 ちなみに、わたしは「波止丸」と書いたが、同じ1点だったが残念ながら対象外された。実は、この「波止丸」という名称は、昭和47年8月、青ヶ島の村営連絡船として初就航した「あおがしま丸」の船名を決めるとき、当時の村長の奥山治(1918〜2000)が投じた船名だった。そして、このとき、わたしは柳田國男の「青ヶ島還住記」を想起しながら「還住丸」と記入していたのである。つまり、芳賀さんを通じて、わたしの個人的な想いが21年ぶりに実現したのである。
 昭和47年のときは、たしか6月の定例会のあと、当時、平の主事補だったわたしが司会役をして議員に決めてもらった。このときも「ブルーアイランド」とか「オオタニワタリ」「為朝丸」「七郎三郎(しちょうさぼり)」などが複数あった、と記憶している。どれを選んでよいのか、五里霧中の状態になったとき、当時、副議長をしていた佐々木一郎さん(のち村長1期)が「青ヶ島どうて『あおがしま』が解りやすくて、一番よっけが…」といい、議長の佐々木静喜さんが「そごん、そごん、平仮名なら誰でも読める」と発言し、「還住丸」と同じく1点の「あおがしま丸」へと急転的に決定した。そして、わたしが名付け親の名前(山田はなさん=常道さんの夫人)を発表すると、治村長は一瞬だったが、青ざめて小刻みに震え納得できない、という表情をしたのを強く憶えている。21年後、わたしが「還住丸」でなく、「波止丸」と記入したのはそのためである。
 青ヶ島「還住」という言葉は柳田國男に発し、その概念は宮本常一の強力な後押しと、そして山田常道氏や、わたしとか、青ヶ島青年団の唱導で次第に村民の間に定着していった。しかし、決定的なのは、やはり「還住丸」の登場だ。その名前が決定したあと、わたしはその命名由来をしたためて、翌日、国・都の関係機関や、伊豆諸島開発、東海汽船へ公文書として送付した。もちろん、柳田國男の『青ヶ島還住記』の文脈に沿って記述したのである。
 ところが、その後、柳田はこの「還住」という言葉を、なぜ選んだのか、と言うことが気になってきた。柳田は『青ヶ島還住記』を昭和8年8月〜10月『嶋』(4号〜6号)に発表し、同じく『嶋』3号(昭和8年7月)発表の『八丈島流人帳』などと共に、昭和26年9月、創元社から『島の人生』として刊行している。ところが『青ヶ島還住記』の、どこを読んでも「還住」にルビは振られていないのである。
 現在、わたしたちは「かんじゅう」と読んでいるが、実は、柳田がどう読ませようとしていたのか、分からないのである。ちなみに、このとき創元社の社員として『島の人生』の編集をした故・小林秀雄氏は、この本の編集の過程で、近藤富蔵の『八丈実記』の存在を知り、以来、それにとりつかれて『八丈実記』の刊行を始めるため、緑地社を創業するのである。その小林氏が「かんじゅう」と読んでいたし、宮本常一先生も同じく「かんじゅう」と読んでいたので、まったく疑問も感じなかったのである。
 だが、岩波書店の『広辞苑』を引いても「かんじゅう」では出てこないので、おそらく柳田の造語だろう、と勝手に思い込んでいたのである。ところが、ことしに入ってから、たまたま藤木久志著『雑兵たちの戦場―中世の傭兵と奴隷狩り』(朝日新聞社、1995)を読んでいたら、「還住」に「げんじゅう」とルビが振られていたのでビックリした。たしかに、『広辞苑』で「げんじゅう」と引くと、「げんじゅう【還住】もとの地にかえって住むこと。(日葡)」とある。ちなみに、『国史大辞典』(吉川弘文館、昭和60年)では『吾妻鏡』の、『日本国語大辞典』第2版・第3巻(小学館、2001年)では『信長記』に登場する「還住(げんじゅう)」の語を紹介している。
 つまり、鎌倉初期には、「還住(げんじゅう)」という語が成立していたと考えられる。すなわち、戦乱に巻き込まれた農民が逃散(ちょうさん)したのを、『吾妻鏡』では頼朝がもとへ戻せと下知しているのである。そして、この語が最も使われるのが戦国時代である。戦国領主たちはしばしば「還住令(げんじゅうれい)」なるものを出しているのである。
 攻め入る側の領主も勝利した暁には農民たちには戻ってきてもらいたい。守る側も勝てば自分たちを見捨てて逃げた農民には帰村してもらいたい。それは税を徴収するためである。そこで住民の安堵が求められる。細かく言えば、いろいろな様相が存在するが、ともあれ住民安堵を目的に発せられるが「還住令」である。こうした「還住令」は、徳川政権が確立するまでは各地で出されたものらしい。
 青ヶ島の場合、戦乱ではなく火山噴火という自然災害による“逃散”である。幕府という権力から見れば、戦乱であろうと自然災害であろうと、脱出は一種の“逃散”である。犯罪とはいえないが、戦乱における“逃散”の場合、農民の抵抗という側面もあった。“還住”してもらわないと面子が立たないのである。統治ということでは、一時的に年貢を免除したり、あるいは、お救い米などを供しても再び年貢を納めてもらう必要がある。たとえ微々たるものであっても、統治ということでは“逃散”を見過ごすことはできない。実際、戦国領主たちもそう考えて、土地の復興をさせているのである。
 青ヶ島に対し「還住令」は出されなかったものの、幕府もそう考えたのではないだろうか。 東京帝国大学法学部を卒業後、農商務省の官吏をしながら早稲田大学で農政学を講じ、法制局参事官を経て貴族院書記官長を務めた柳田國男は、「還住(げんじゅう)」の意味を熟知していたはずである。おそらく柳田は、流人以下の悲惨な避難民生活を送っていた青ヶ島の島民の「もとの所へかえり住みたい」という気持に感情移入し、それまでの「還住(げんじゅう」を逆手にとって、従来の意味とは違う「還住」という語を創出したのではないだろうか。
 すなわち、「もとの所へかえり住む」と言う意味が、「還住(げんじゅう)」から「還住(かんじゅう)」へと能動的に展開したのである。位相が大きく変化したのである。それが青ヶ島を契機としていることに、わたしは次郎太夫に代表される当時の青ヶ島の島民の悲惨生活に感情移入したいのである。
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