|
39 村有地に建つ青ヶ島の神社 |
2010.02.06
|
|
青ヶ島では、神社は村有地に鎮座している。こんなことをいうと、青ヶ島というところは、とんでもない島だ、政教分離に違反する行為だ、憲法違反だ、と考える御仁もいるかも知れない。なにしろ先頃(1月20日)、最高裁大法廷(裁判長・竹崎博允長官)は、北海道砂川市の市有地に建てられた町内会館の中に鎮座する空知太神社の祠の存在を、政教分離に反する違憲行為と判断したからである。
歴史的にみると、青ヶ島の神社は明治以前は「村持」である。すなわち、神社の管理・運営は「村」によって行なわれていた。ただし、この場合の「村」は、明治22年以前の、すなわち「市制」及び「町村制」施行以前の「村」のことである。歴史学や、政治学や、民俗学でいうところのムラ(自然村)である。いうならば、シマ共同体=ムラ「持」ということである。
青ヶ島では、いわゆる町村制は施行されず、明治40年の「沖縄県及島嶼町村」や、その後「沖縄県」が除外された「島嶼町村制」の対象外の地域として、昭和15年4月1日の一般町村制の施行の日まで、いわゆる地方自治体としての「村」としては存在していなかった。そういう意味での「村持」であった。その「村持」という概念は、青ヶ島のムラ人の共有地の義である。というよりも、その神社に斎き坐します神の土地という観念のほうに近いだろう。ムラ人が神社の鎮座地を共有するのではなく、その土地は神のものであるという考えである。左翼にもわかりやすく翻訳すれば、コンミューンの神がコンミューンの人びとを守護している、という関係性である。
しかし、青ヶ島村の発足とともに、おそらく、こうした「村持」の鎮座地も青ヶ島村の村有地へと移管されたはずである。本来、神社の所有地として登記されるべきであったかもしれないが、そういう事務処理とか、法的=行政的判断は難しい状況にあったと思われる。というよりも、大里神社と東台所神社は明治8年(1875)12月28日付けで足柄県令柏木忠俊から「村社」の指定を受けているが、その後は「神社」を管轄した内務省の認識の外に置かれていたようである。ただし、戦前の話として東京府から年間5円だったか10円だったか、維持費が送られてきたという証言を、わたしは昭和47年ごろ得ている。
昭和15年4月1日、宗教団体法が施行され、また同年11月9日にはそれまでの内務省神社局が外局としての神祇院へと改組されたが、青ヶ島ではおそらく、そういう事実があったことも知らなかったのではないかと思う。
戦後、伊豆諸島が日本政府から行政分離されていた(昭和21年1月29日〜3月22日)間の昭和21年2月3日、神社本庁(現在は包括宗教法人)が設立され、昭和26年4月3日には現在の宗教法人法の基礎となった宗教法人法が公布・即日施行された。しかし、青ヶ島では、そのことも知らなかったと思う。
何しろ、昭和31年7月8日の参議院議員選挙の日まで、国政・都政レベルの選挙権を公職選挙法施行令の条文によって奪われていたからである。そのときまで電話はもちろん無線電信の施設も無く、電報も打てないし、電報なんて来なかったのである。ましてや船も運が悪いと、3ヵ月〜8ヵ月も来なかった時代である。ひょっとして、提出期限が数ヵ月前に切れた書類が届いたかもしれないが、「そごんどうもの、どこげぇか、まじゃけたらら」ということになったにちがいない。
こうして、青ヶ島の神社は神社本庁傘下の神社になることもなく、宗教法人を取得することもなく、精神構造的には明治以前の「村持」の伝統を維持しているわけである。もちろん、それは「民主憲法」の呼び声の高い現「日本国憲法」の下で、そうなっているのである。もし、砂川市の空知太神社のことを提訴したクリスチャンのような人物が現れて、青ヶ島村は違憲行為をしていると訴えたなら、民主憲法は青ヶ島というムラを根絶し、そのムラ人の神社の土地を略取しようとしていることになる。砂川市の空知太神社の祠の鎮座の経過を詳しくは知らないが、おそらく似たような歴史的構造を持っているのではないかと推測する。多分、神社はいけないけれど、仏堂やマリア像なら許されるというのであろう。青ヶ島の場合は、おそらく民間信仰・土俗信仰だから許しあげると、日本国憲法が「日本国民は、正当に選挙された国会にける代表者を通じて行動し…」と「前文」で高らかに宣言しているのに、民主的に青ヶ島から選挙権を奪ったのと同じい精神的文脈で、かれらは問題にしないのかもしれない。
ちなみに、青ヶ島のこの問題に関しては、わたしが青ヶ島村の助役だったころ、東京都総務局行政部指導課(当時)と電話で協議し、「村持」についての内諾をもらっている。
|
|