目 次
30
31 《八郎》子と源為朝
32 英語のislandの語源
33 〈シマ・ウッナー〉カイエ(1)
34 〈シマ・ウッナー〉カイエ(2)
35 還住(かんじゅう)と還住(げんじゅう)
36 息津嶋神・葛嶋神・坂代神という三島〈三宮〉構造
37 八丈嶋の「わきしま」鬼が嶋の〈五種+α〉神宝
38 都議補選(島嶼部)の開票結果と普天間の問題
39 村有地に建つ青ヶ島の神社
40 青ヶ島が奪われる?
41
37  八丈嶋の「わきしま」鬼が嶋の〈五種+α〉神宝
2009.04.09
 
 過日、20数年ぶりに『古活字本保元物語』(岩波・日本古典文学大系『保元物語・平治物語』)の〔為朝鬼が島に渡る事並びに最後の事〕の部分を読み直した。青ヶ島に擬せられている「鬼が嶋」の鬼の子孫たちの、鬼としての能力が失(う)せて「かたちも人になりて」ということは憶えていたが、鬼が「たから」を持っていたということを、すっかり忘れていた。
 為朝が「鬼が嶋」へ渡ったとき、「あみのごとくなる太布」を身に付けていたが、すでに鬼としての「果報」は尽きていた。それは「鬼神」としての「たから」を失っていたからである。
 その「たから」というのは、「かくれみの・かくれがさ・うかびぐつ・しづみぐつ・劒などといふ宝」である。すなわち、ニギハヤヒの十種神宝(とくさのかむたから)や、アメノヒボコの七物(ななくさ)、あるいは八種の「玉つ宝」に匹敵する「五種+α」の神宝である。
 鬼神であったころは、これらの神宝を使って《日々人を食っていた》が、それがいつの間に失ってしまうと、「他国に行(く)事もかなわず」、いわゆる人間のかたちになってしまったのである。
 青ヶ島が『古活字本保元物語』の「鬼が嶋」に擬せられているのは、青ヶ島の古称が「オフノ(ガ)島」であったからである。おそらく。オウガシマは《オウ(奥)ガ島》の意と考えられるが、そのオウガの音韻がオンガへ転訛し、オンガシマのオンガシから「鬼が衆」が想起され、さらに“鬼が島”へと転位していったもの、とおもわれる。一方、オウから《青》の字が充てられ、現在の“青ヶ島”の名が生じてきた、と推定できる。
 また、オウガ島とほとんど同音のヲガシマの別称もあった。このヲガに「小鬼」に字が充てられ、さらに「小鬼」を音読みして「セウキ」→「ショウキ」から想起されたのが「鍾馗」である。じつは、青ヶ島の総鎮守の大里神社の旧社号(少なくとも天明の山焼け以前)は「鍾馗神社」である。すなわち、青ヶ島が「鬼が島」に擬せられるには、それなりの根拠があることになる。
 ちなみに、『広辞苑』によれば、鍾馗とは「(唐の玄宗の夢の中に、終南山の人で、進士試験に落第して自殺した鍾馗が出て来て魔を祓い病を癒したという故事から)疫鬼を退け魔を除くという神。巨眼・多髯で、黒冠をつけ長靴を穿き、右手に剣を執り、小鬼をつかむ。…」とある。いいかえれば、鬼の子孫は自らを封じるため、鍾馗を祀ってしまっているのだ。もしかすると、為朝の命かもしれない。
 ところで、ここで気になるのは、「鬼が嶋」の《五種+α》神宝の中味である。五種のうち最初の二種「かくれみの・かくれがさ」の道具は、鬼の神宝というよりも天狗の持ち物のほうに相応しい。しかし、鬼=天狗という等式が成り立つ人々がいる。吉野や熊野の山人の場合がそうである。彼らは役行者ゆかりの由緒正しい鬼の子孫たちであり、同時に天狗を彷彿させる貌を持った修験者(山伏)である。
役小角が伊豆嶋(伊豆大島?)へ流されたとき、役行者を追って補陀落渡海をし、最南端の青ヶ島へ漂着した山人たちもいたのではないだろうか。紀伊半島と八丈島・青ヶ島に伝わる徐福伝説や、青ヶ島には熊野の漁民が流したであろう熊野那智大社の御札がしばしば流れ着く。こうしたことを考えると、為朝が出逢った「鬼が嶋」の鬼の子孫が熊野や吉野の山人とつながっているように思えてくる。
 それにしても、気になるのは「鬼が嶋」の《五種+α》の神宝である。もちろん、『古活字本保元物語』は、いわゆる『保元物語』よりも虚構性が増大している。でも、わたしはこの消えた神宝の行方が気になってしかたがない。そういえば、35年以上も昔、あるはずのない神宝が大里神社にあるかもしれない、と思ったことがある。ちなみに、青ヶ島には流坂天狗、槍ノ坂天狗などの天狗もイシバサマとして祀られている。

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