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36 息津嶋神・葛嶋神・坂代神という三島〈三宮〉構造 |
2009.02.01
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わたしは、拙著『言霊の宇宙へ』(たま出版、初版1988年1月;タチバナ教養文庫、初版1994年9月)の中で「〈大本〉神話における離島空間―冠島・沓島・神島の神話的座標軸」という論を展開している。このうち冠島と沓島は、草創期の大本(教)にとっては、ひじょうに重要な意味を持っていた。開祖の出口なお等はこの二つの島に渡って「二度目の天の岩戸開き」としての「冠島(おしま)・沓島(めしま)開き」をしている。実は、わたしは、この沓島‐冠島と、京都府宮津市に鎮座する『延喜式』神名帳「丹後國與謝郡 籠(この)神社(名神大、月次新嘗)」との間で、宗像大社の沖ノ島(沖津宮)−大島(中津宮)−本土側の田島(辺津宮)に見えるような〈三宮〉構造を考えていたのである。しかし、最近、「沓島・冠島」=息津嶋神‐「沖葛島・磯葛島」=葛嶋神‐「X」=坂代神という三島〈三宮〉構造もありえる、と思うようになった。
そのことについて書いたのが、『しま』No.214(2008年7月)掲載の拙稿「海と島を蔑ろにしてきた日本人の精神構造」である。今回、その後半の3分の1に相当する89ページ下段〜91ページを転載する(全文は日本離島センターのHP http://www.nijinet.or.jp/で閲覧できる)。ちなみに、坂代神の所在は不明だが、坂代のサカは磐境(イハサカ)のサカ(境)、シロは依代(ヨリシロ)やヤシロ(社=屋代)のシロであることを考えると、本来は重要な意味を持っていた、と思われる。なお、「〈大本〉神話における離島空間」で扱った「神島」とは、兵庫県姫路市家島町の上島を指す。
(今は埋没してしまっている『日本三代実録』記載の島神を紹介したい。)
この『日本三代実録』は平安時代の延喜元年(九〇一)成立の歴史書で、いわゆる六国史(日本書紀、続日本紀、日本後紀、続日本後紀、日本文徳天皇実録…)の第六にあたり、清和天皇、陽成天皇、光孝天皇の三代を扱っている。その陽成天皇の御代の元慶四年(八八〇)十月十三日癸巳条に「丹後国正六位上息津嶋神・葛嶋神・坂代神並授従五位下」という記述が登場する。すなわち、「丹後国の正六位上の息津嶋神・葛嶋神・坂代神の三神にたいし、みな(並)に神階を一つ上げて従五位下を授ける」というのである。
これら三神の中で最も理解しやすいのが葛嶋神である。京都府舞鶴市の大浦半島の北岸の三浜の沖一キロに小島が二つ並んでいる。どちらも無人島で、手前のやや大きめの島が磯葛島、その北西側に隣り合うもっと小さな島が沖葛島である。葛嶋神はその磯葛島に鎮座していたと考えられているが、実際にはどちらに鎮座していたか判別できない。
いっぽう、息津嶋神は、三浜の沖十五キロの若狭湾に浮かぶ冠島(別名、大島・雄島)か、あるいは、その北東二・五キロの沓島(別名、小島・雌島)に鎮座していたであろうと考えられている。ただし、冠島は『丹後国風土記逸文』のいわゆる浦島伝説の、水江の浦の嶋子が訪れた「島」に比定されて、それに因む「老人島神社」が祀られており、「息津嶋神」が鎮座していたのは一般的には冠島だと想われている。しかし、明治以降の霊能者としてはピカ一の存在だった大本開祖の出口なお(一八三七〜一九一八)は、冠島よりも沓島のほうを重視していた傾向があり、「沓島」説も捨てがたい。というよりも、〈沓島=雌島〉と〈冠島=雄島〉の陰陽関係からこの両島を総称して「陰陽島」、また、かつて地元では「沖ノ島」と呼んでいたというから、『日本三代実録』の「息津嶋神」はこの両島を総称した神と考えたほうがよいだろう。実際、この両島は昔の地名で言えば丹後国加佐郡の「凡海郷」(つまりオウのアマ郷の義だ!)に属しており、そのオウの島の大きいほう(冠島)を〈大〉島、小さいほう(沓島)を〈小〉島に充てたと思われる。なお、冠島と沓島の島名は島の形状から生じている。
ちなみに、出口なおとその女婿で大本聖師の出口王仁三郎(ただし当時はまだ上田喜三郎、一八七一〜一九四八)ら計四名が明治三十三年(一九〇〇)旧暦六月八日(七月四日)、冠島へ「出修」し、さらに翌月には九名が沓島を参拝している。さらに、日露戦争真っ最中の明治三十八年五月十四日(旧暦四月十日)には出口なおは単独で沓島へ渡り、戦勝と平和祈願のため十日間の“お籠り”をしている。当時、バルチック艦隊が日本海へ向かっており、軍港・舞鶴海軍鎮守府では日夜、海上警戒を行っていたが、ある日、望遠鏡を覗き込むと、人がいるはずもない岩礁に人が見えたので「すわっ、露探だ」ということで大騒ぎになったという逸話が残されている。もちろん、出口なおが沓島で御神業をしていたのである。
ところで、本土側にあったと想われる坂代神は、まったく埋没してしまっている。この坂代神を『延喜式』神名帳の「丹後国与謝郡 須代神社」(京都府与謝郡与謝野町明石に鎮座)に充てる人もいるが、沓島‐冠島‐沖葛島‐磯葛島のラインから大きく南西方向へ、しかも磯葛島から三〇キロ近くも離れており、やはり大浦半島側のどこかに鎮座していたと考えるべきである。『延喜式』は延長五年(九二七)に完成し、康保四年(九六七)に施行された律令だが、息津嶋神・葛嶋神・坂代神は『延喜式』完成の三十七年前に式内小社と同格の従五位下の神階を授けられているので本来は『延喜式』神名帳に登載されていてもいいはずなのに、おそらく、すでに埋没してしまっているわけである。ちなみに、『延喜式』と同時代、あるいは以前の神社で、式内社と同格以上の神階を持っているのに、何かの理由で記載されなかった神社を「式外社」と呼んでいる。
いうならば、丹後国加佐郡凡海郷の海人(漁民)や、同じく与謝郡の浦の嶋子たちにはよく知られていたが、国地の統治者からはまさに「息津嶋神」や「葛嶋神」はシロシメス型の島神の典型として、しばらく時が経つと忘却されてしまうのである。ちなみに、息津嶋神・葛嶋神が坐しました島々は古来から無人島であり、今日では沓島・冠島は鳥獣保護区(オオミズギナリドリなど海鳥の繁殖地として特別保護区)にしていされていて上陸を禁止されている。出口なおらの「出修」以前は宗像大社の沖津宮(沖ノ島)同様に女人禁制の地であったが、この「息津嶋神」が鎮座していた島に、出口なおは「艮の金神」(のち国常立尊の神格が与えられる)が隠れていたとして、第二の「天の岩戸開き」として「雄島・雌島開き」を行うのである。まさに、沓島・冠島、沖葛島・磯葛島は「アマ‐シロシメス」の典型的な島だったといえる。なお、舞鶴要塞保塁砲台跡がある冠島は老人島神社の例大祭と、大本関係者の年数回の参拝、海鳥の保護調査のとき以外は上陸が禁止されている。
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