|
33 〈シマ・ウッナー〉カイエ(1) |
2008.04.01
|
|
●「聖なるもの」としての島
島と宗教の近似性。島は分離された聖なるものである。そして、聖なるものである島々は、それゆえに、お互いに結びつこうとする。ところが、中央集権主義(もちろん、そこには民主集中制も含まれる)は、聖なるものどうしの結び付きを、島国根性のレッテルを貼り付けることによって排除しようとする。彼らにとって、島々は文字どおり、分離され続けなければならない存在なのだ。
イメージの欠如としての中央集権主義者たち。否、偽装のイメージという暴力装置で、「聖なるもの」を破壊しようとする人びと。固有のビジョンを持つことなく、中央が決定したステレオ・タイプとしての「イメージ」を護持しようとする連中。
〈島〉を理解しようとしない人たちは、「世界観」を持っていないのだ。
●ウッナーという対抗文化
ウッナーという、ヤマトゥーにたいする一種の対抗文化。だが、今日のこの対抗文化は、ヤマトゥーの文化そのものへの対抗とはまったく次元の違ったものへ、と煽動されている。否、ウッナーの文化じたいも、目に視えない形で骨抜きにされ、実は、否定されているのだ。
政治主義的に煽動されている環境の中に身を置くことで、対抗文化の内側にいるのだと思い込ませられていく。そうした〈欺瞞〉にいることを、彼らは知らないのである。しかも、その政治主義的煽動によって作られた環境たるや、少なくとも5倍以上の水増しなのだから驚く。その希薄な〈洪水〉の正体を見破られないようにするための、あの手この手を駆使しての方法・手段によって操られている。
躍らせられたウッナンチュとヤマトゥンチュの二重の不幸。もちろん、ヤマトゥーとも違う、そしてウッナーとも違う《対抗文化》の中に仄見える巨大な《帝国》の影に震撼せよ。ウッナーを《帝国》化させようとする動き。架空の〈洪水〉を物質化させた《洪水》の中に放り込まれて、アップアップさせられている人びと。
●琉球(沖縄)独立論という精神構造の奥底
昭和47年(1972)5月15日の沖縄の本土復帰。その前年あたりに叫ばれたのが「琉球独立論」である。その背景には、ある種の〈外圧〉の内政干渉に饗応する形でのものがあったが、今日、「集団自決」の問題を契機に、一部で新たな“独立論”が再燃し始めている。その精神構造の母胎は奈辺にあるのか。
その典型的な存在が「沖縄学の父」伊波普猷(1876〜1947)である。言語学者として沖縄語(琉球方言)を研究し、「日琉同祖論」を唱導することによって、ウッナンチュのアイデンティティの形成に貢献した憂国・憂郷の士でもある。その伊波普猷が「追遠記」(『古琉球』所収)の中で、次のように書いている。
「琉球では支那人の子孫だといえば、直ちに□(門に虫、ビン)の三十六姓の子孫なる久米村人を指すのであるが、私などもやはり支那人の子孫である。しかしそれが蒙古と西蔵との間にある甘粛省の渭水に沿うた天水という所の魚氏の子孫である。口碑によると、私の祖先は明帝の侍医になっていたが、不老長寿の薬を求めて日本の日向にやって来た、ということである。そして日向に二代いて、三代目には琉球へ渡ったということである。」
すなわち、愛国者の伊波普猷ですら、おのれの出自が支那人である、ということに誇りを抱いているのである。しかも、伊波氏は「魚培元」という「唐名(カラナー)」を持っている。しかし、伊波氏の場合、今日の沖縄文化人のような「反日」思想を持っていないにもかかわらず、自分が「唐名」という〈隠れ支那姓〉を持っていることに、ほのかなステータスを感じているのである。
もちろん、先祖を想う気持は大切だし、たとえ幻想であってもおのれの出自は誇るべきである。だが、伊波氏が支那人の子孫であるという確たる証拠はないはずだ。単なる口碑にすぎないのだ。それは、「支那人の子孫」であるほうが、琉球王朝時代は都合がよかったからに他ならない。しかも、伊波氏の祖先の場合、二代が「日向」の人である。いうならば、日向の「支那人」である。そして、琉球の実質的支配者だった「薩摩」でなく、「日向」経由で琉球へ渡ったというところが、まさに口碑の神州「ミソ」なのである。
さらに、「不老長寿の薬を求めて」というところは、伊波氏の祖先が遅れてきた「方士徐福」的存在であったことを物語っている。おそらく、日向を経由させたのは、神武天皇の故事を想起したのかもしれない。それらも含めて、口碑の伝承性の本質を露出させている。伊波氏の〈貴種〉性を誇示しようとの意図がうかがえる。いいかえれば、あくまでも幻想の〈神話作用〉から発出しているのである。
実は、伊波普猷という存在じたいが「日支両属」の精神構造を体現していたことになる。いうなれば、ここに「琉球独立論」の淵源、そして、その精神構造の奥底があると言っても過言ではない。すなわち、その精神構造が幻想の〈神話作用〉であるという点で、根深いのである。
|
|