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第22話 青ヶ島の消えた点景の想い出 |
2004.06.08
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初めてその場所を通過したときには、まったく気が付かなかった。昭和46年5月10日、校長の沖山基徳(おきやま・もとのり)先生の厚意で、たぶん教頭の山田常道(やまだ・つねみち)先生が運転するジープに同乗させてもらって、ひどいデコボコ道を走る車の中で天井に頭をぶつけながら、海と崖が交錯する景色に、一睡もできなかった眼がびっくりして、おそらく見落としていたのであろう。
二度目は、たしか、それから三週間ぐらい後のことである。奥山喜久一さんが三宝へ行こうと誘ってくれたのである。そのころ、青ヶ島にはジープを含めて四輪車は5台ぐらいしかなかったが、船担当の喜久一さんは〈波見〉のためにジープを持っていたのである。
役場を出て西郷(にしごう)の郵便局(当時の)の横を左折し、しばらく走ったところで、それは見えたはずである。
「喜久一さん、写真を撮るから、車を止めて!」と、わたしは叫んだ。
しかし、喜久一さんは「島に住んでいるのだから、今度のときにしなさい。いつでも撮れるし、景色は逃げるものではない」というようなこと島言葉で話し、往きも復りも素通りされてしまった。
それから1週間か2週間後のことである。季節はちょうど梅雨のころだった。激しい雨が降り、崖が崩れて道路の一部に土砂が流れ込んだらしい。喜久一さんはその現場を見に出かけて、帰ってきたところだった。
「菅田さん、スマン!」
「エッ!」と、わたしが聴き質すと、喜久一さんは申し訳なさそうに「あの、メガネ橋がなっけふうになってしまらら」と言うのである。
じつは、そこには、自然のアーチのようなものがあったのである。今、青ヶ島にいれば、その場所を特定することができるが、地図を見ると、おそらく庄助凸部(しょうすけとんぶ)の辺りだと思う。昔だと、三宝港方面から都道を上って左側に海を見下ろしながら走って来ると、眼下に西浦、正面方向に流向(ながしむき)や西郷が見えるコの字型の場所に、あたかも、そこがオカベ(岡部=西郷と休戸郷の総称)への玄関口であるか、のように立っていたのである。
ところが、それが一夜にして崩壊し、消えてしまったのである。それは、わたしが体験した初めての、青ヶ島の失われた光景だった。そのとき、わたしは、写真は思い立ったとき撮らなければならない、ということを識った。しかし、実際に住んでいると、なかなか撮ることはできないのである。ちなみに、同じ頃、青ヶ島にいた教員たちも、それを撮っていないようである。
こうして、ぜひ記録しておけば、という光景を、次々と失ってしまった。わたしの頭の中には、それらの光景が一つの点景としてこびりついているが、いまや、それも徐々に輪郭をおぼろげにさせている。しかし、それらが時々、夢の中にでてくる。
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