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第24話 ふたつのオリンピックのころ。 |
2004.08.18
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アテネ・オリンピックが始まった。しかし、オリンピックといえば、やはり昭和39年10月の東京オリンピックと昭和47年2月の札幌オリンピックを想い起こす。なぜなら、このふたつのオリンピックは青ヶ島の生活に大きなエポックを画してきたからだ。
東京オリンピックのとき、文部省(当時)は日本国中の小中学生にオリンピックの感動を共有してもらおうと、一校に一台のテレビを送ることにした。青ヶ島は小中学校だから、当然二台が送られてきた。ところが、当時、青ヶ島には電気がなかった。これでは、折角の好意も宝の持ち腐れ。「テレビはよっけどうが、みほうがなっきゃ」というわけで、電源が必要だった。
国や東京都も東京オリンピックが始まろうとしている時代、東京都に属する地方自治体に、まだ電気がない村があること知らなかったのである。そこで急場しのぎに2キロワットの発電機が送られてきた。しかし、それは2時間ぐらいしか稼動させることができず、学校での〈上映会〉のテレビ画像は、電波の影響もあって、きわめて不鮮明なものであったようだ。
全国一斉の感動の共有は、じつは、最初からお膝元の東京で崩れていたのである。ただ、当時のわたしはそんなことはまったく知らなかったし、そういう事実は国民には知らされていなかっただけである。
詳しい話は省略するが、青ヶ島が全村灯電になったのは昭和41年10月のことである。しかし、この時点では、まだ24時間発電ではない。こうして、札幌オリンピックを迎える。
その頃の発電時間は、わたしの記憶では、午前5時から8時30分まで、午前11時30分から午後1時まで、午後4時から11時までの三つの時間帯からなっていた。貨客船が入港する日は、艀作業に出かける人のために1時間早く点灯されることもあったが、日曜の夜のテレビ映画などはいつも最後が尻切れトンボという状態で送電が停止となった。当時の学校の教員の中には、発電所担当の欣胤さんが休戸郷・大根ヶ沢の自宅からバイクで発電所へ向う音を聞きつけて、学校前の教員住宅でつかまえてあと10分遅らせてくれるよう交渉する人もいた。
札幌オリンピックのときも、肝心な場面は観ることができなかった。わたしの場合、役場でトランジスタ・ラジオをつけながら、仕事をしていた。突然、駐在所から島内電話があって、たしか功さんだったかと思うが「日の丸がみっつ挙がるどうて、見におじゃりやれ」と酔っぱらいながら声を掛けてくれた。駐在も「来なさいよ」と言ってくれた。
当時、駐在所ともう二箇所ぐらい、蓄電装置を持っているところがあった。そういうところでは、送電時間に関係なく、テレビぐらいは見ることができたわけである。しかし、一般的には、肝心な場面は見逃してしまうことが多かったのである。
ところが、札幌オリンピックが終わってすぐ発生した連合赤軍による〈あさま山荘事件〉のときは、様相が違った。映像は、アンディ・ウォホールの実験的=前衛的映画のように、ただ〈あさま山荘〉が延々と映し出されるだけのものだったのに、日本国中の人は釘付けになって、ほとんどそれを見たのである。東京オリンピックを見ることができず、札幌オリンピックの場合はニュースでしか見ることができなかった青ヶ島の島民が、なぜか〈あさま山荘〉だけは、ほとんどの人が見てしまったのである。なぜか?
じつは、いつまで経っても電気が消えなかったのである。発電所の、その日の午前中の担当は自称・発電所長の倉一さんだった。しかも、その日、倉一さんは少々、酔っぱらっていた。テレビを見ていたら消せなくなったのである。おまけに、当時の奥山治村長は予算分捕りの最終攻勢で東京へ出張中だった。
倉一さんに命令できる人がいないのである。喜久一さんや、謙次さん、さらに、正人くんやわたしまでもが発電機の運転を中止するよう要請した。しかし、倉一さんは「やだらあ」を繰り返すばかり。「こごん、大変な事件を見んのうと…。おめえも見やれにぃ…」と言うのであった。いつもなら、運転時間の少しのズレにも文句を言う厳格な人も、その日はだれも文句を言って来なかったのである。こうして、戦後最大の事件を、青ヶ島のひとたちも共有することができたのである。
そうなると、どうして、同じ月の札幌オリンピックは見ることができなかったのか、ということになる。それは発電機のキャパシティの関係だった。壊れてしまうかもしれないからだった。じつは、この服務違反事件が一つの突破口となって、その年の秋、文字どおりの24時間送電が実現するのである。札幌オリンピックを現在進行形で見ることができなかった、ということもその改善のひとつの要因なのである。
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