目 次
第20話
第21話 天野社と葉山信仰――あるいは、青ヶ島の天野早耳者様(テンニハヤムシサマ)と葉山八天狗(ハヤマハチテング)との関係――
第22話 青ヶ島の消えた点景の想い出
第23話 青ヶ島はユニハである
第24話 ふたつのオリンピックのころ
第25話 郵便物を出すときの不安について
第26話 続・郵便物を出すときの不安について---無番地ということ---
第27話 双丹姓の謎と青ヶ島の「でいらほん流」
第28話 伝説・青ヶ島保育所のオルガン
第29話 カナヤマサマと金山祭り
第30話
第28話 伝説・青ヶ島保育所のオルガン
2005.09.01
 
 「鳥も通わぬ…」と謳われた八丈島の、さらに南方67キロの黒潮のなかに浮かぶ孤島・青ヶ島。三〇年前も今日も、人口は二〇〇名前後の、東京都に属する全国最小村である。わたしは、この青ヶ島に、昭和四六年五月から四九年一月までと、平成二年九月から五年七月までの計二回、住んだことがある。一度目は役場職員として、二度目は青ヶ島村助役として、である。
 その16年間に、青ヶ島も大きく変貌した。一度目の最初のころは、定期船が月に二〜三便で、運が悪いと月にゼロ便になることもしばしばだった。そして、島外へ通じる電話も、警察電話を含めて三回線があるのみ。そのためか、個性あるマレビトや、外部からもたらせる一風変わった情報は「神話」化しやすかった。しかし、今や、定期船は原則的に一日一便だし、毎朝、ヘリコプターも飛来する。もちろん、どちらも天候次第である。
 三〇年前の一度目の「離島」のとき、同世代の当時二〇代後半の教員たちと、次のようなことを話したことがある。「すくなくとも三〇年以上、島の人たちにはまったく連絡せず、突然、青ヶ島を再訪したら、自分たちのことはどのように語り継がれているであろうか」という内容だった。しかし、わたしは島との接触を断つことができず、再び青ヶ島へ渡り、名目上は島の行政No.2になってしまったのである。そして、この一六年間では、ただ一人を除いて、《民話》の登場人物にはなっていないことを発見したのである。
 その唯一の例外は、保母のMさんである。彼女はじつに色白の女性だったが、そのことが次のようなトンデモない伝説を生み出していたのである。
「Mさんって、とても肌の綺麗な人だったんだけど、それはネ、夜中になると、墓場へ出かけて、骨を掘り出してバリバリ食べていたからなんだって…」
 これを聴いて、わたしは驚愕した。それはまったくありえない作り話なのである。彼女は昭和四五年四月に来島し、四八年三月に離島したが、わたしが最初の離島をした時点では、もちろん、そんな話は発生していなかった。
 Mさんの名誉のために言っておくが、彼女は昭和四六、七年ごろUターンしてきた青年たちのアイドル的存在であったものの、夜は週に二日程度、女性教員の住宅へもらい風呂に行くために出かけるだけで、旧駐在所跡を利用した保育所を一歩も出ず、保育時間以外は誰も内には入れない、という生活を送っていたのである。ひょっとすると、フラレ男が腹いせに言い出したかもしれないのである。
 そのMさんに関して、後日談になるが、わたしの助役在任中の平成四年一月ごろ、とても美しい物語が誕生した。
 じつは、わたしが助役に就任したときには、すでに青ヶ島保育所を退職して島を離れていたYさんという元保母が、このMさんの住所を教えてほしい、と何度も電話をしてきた。しかし、役場内ではわからず、比較的のちまでMさんとの交流があった島民に聞いても、消息がつかめなかった。そこで、わたしは昭和四七、八年ごろの記憶を手懸かりに、古びた履歴書綴りをやっとのことで捜し出し、Mさんの戸籍地をYさんに伝えた。
 しばらくすると、Yさんから電話が掛かってきた。
「わたし、そこへでかけたんです。朝、まだ暗いうちに電車に乗って、いくつも乗り換えて、Mさんが住んでいるかもしれない町の駅まで辿り着いたのです。地図を見ながら、あちこちで訊きながら、一日中歩いたのです。もう、これ以上、歩けない、そろそろ暗くなるし、あと一〇分捜しても駄目だったら、今日は諦めよう、と思って…。なぜか、道ばたに立ってわたしのほうを見ている女の人に声を掛けたのです。このあたりに、Mさんという方がいますかって…。
そうしたら、その女性が『あなた、青ヶ島の保母さん?』って言うのです。『いいのよ、気にしなくって、あなたが悪いんじゃないのよ…。遠くから来てくれて、ありがとう』と言うのです。わたし、『Mさん…』と言って、彼女に飛びつきました。Mさんはわたしをやさしく抱きしめて『ありがとう』を何度も言うのです。わたしたち、三〇分も泣いたあと、二時間も青ヶ島のことを話しました」
じつは、Yさんは、青ヶ島保育所に在職していたころ、その運営をめぐって男性保育者とことごとく対立し、それが原因で保母を辞めていたのである。しかし、ひとつだけ、その保父と意見が一致したことがあった。物置同然の部屋のなかにあった、ほこりを被った、もうならないオルガンを廃棄したら、子どもたちが遊ぶ場所が広くなる、ということだった。そこで、二人は車にオルガンを乗せ、ゴミ捨て場に運んだのである。しかし、Yさんは青ヶ島保育所を辞めたあと、あのオルガンは青ヶ島保育所の初代保母のMさんが持ってきたものではないか、自分は青ヶ島保育所の原点を捨ててしまったのではないか、と思い悩んでいたのである。
昭和四五年一月、観光目的で八丈島へ来た当時二二歳のMさんは、何を想ったのか、冬場の青ヶ島までやってきた。そのころ、彼女は昼間は工場で働きながら、夜は保育専門学校へ通っていたのである。青ヶ島で就学前の子どもたちがたくさんいることを知り、当時の奥山治村長へ保育所設置を要望し、その四月、保母資格を取得し、青ヶ島へやってきた。ところが、村長はまさか彼女がほんとうに来島するとは思わず、急遽、空家となっていた旧駐在所に子ども一三名を集めて無認可保育所としてスタート(翌年四月、僻地保育所として認可)させた。じつは、Yさんがゴミとして投棄したオルガンは、Mさんが工場の退職金(全額)で購入し、このとき持参したものだったのである。
これ以上詳しくは書けないが、青ヶ島と、やや遅れて利島や御蔵島で保育所が開設されたのも、さらに、その数年後、利島で東京都管下で第一号の男性保育者が誕生するのも、昭和四五年一月の、Mさんの青ヶ島への「旅」から始まったのである。若い女性の旅が、島の行政を動かし、島を大きく変えることもあるのである。

 (旅の文化研究所『まほら』No.34、2003.1)

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