目 次
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41 〈シマ・ウッナー〉カイエ(3)
42 尖閣諸島の周辺は波高し?
43 東京都心の埋没した“沖島”地名
44 認識及び思考の対象の枠外に置かれがちの伊豆諸島という存在
―青ヶ島を侮ること勿れ!―
45 地震以後、感じたことなぞ…
46 人口ゼロの自治体で選挙はできるのか?
47 「島」認定の沖ノ鳥島の影の功労者
48 「東洋」と「東海」
49 ムラと村−原子力ムラというときのムラの響き−
50 ロレンス・ダレル(1912~1990)の多島海的な心象風景について-h.20n. 1gt.頃のノートから
50 ロレンス・ダレル(一九一二〜一九九〇)の多島海的な心象風景についてー h.20n. 1gt.頃のノートから
2014.03.12
ロレンス・ダレル(河野一郎訳)『黒い本』(中央公論社、昭和36年)を読んで
 イオニア海にたいする心象風景。「ぼく」の「彼女」へのイメージ。そして、「彼女」を取り巻く男たちの、切れ切れの、さまざまな「彼女」への印象。あるときは文学的に、また、あるときは即物的にノ。それらがイオニア海の心象風景として語られる。しかし、彼の、否、「ぼく」の内面は、その饒舌とは逆宇宙を形成している。「彼女」の遊星としての「ぼく」。詩的言語としての比喩と抽象、あるいは象徴。「ぼく」の狂おしいほどの心象は、その超現実的世界へと誘われてゆく。「ぼく」は「グレゴリー」であり、「彼女」は「グレイス」である。間もなく二人は結婚することになるが、彼女は死んでしまう。そして、彼もまた死にゆくことになる。「緑のインクが無数の宝石のように煙る小さな黒い本」とは、グレゴリーが残した日記であり、この本のタイトルでもある。訳者の「あとがき」によれば、モ黒い本モとは過去帳のことである。いうならば、グレゴリーとグレイスの過去帳である。もちろん、グレゴリーの日記であるから、日記には筋書きがない。作者であるダレル自身の日記と、小説の主人公であるグレゴリーの日記が交錯する。そして、もう一人の「ぼく」であるローレンス・ルシファーの「日記」。それらが打ち寄せる波のように、超現実の中の現実の社会生活を描いていく。そして、ロレンス・ダレルは、この小説の中の男色家チェンバレンでもある。ロレンス・ダレルもその文章も、キン(金)キラ(綺羅)の星々が淡い水色のソーダ水の中で弾ける風景だ。
   ☆   ☆   ☆
 昭和四〇年(一九六五)夏、二〇歳のとき、ぼくは新宿の紀伊国屋書店で、ロレンス・ダレルの、うすい英文詩集をペンギン文庫の中から見つけた。たしか300円もしなかったと思う。ペンギン・ブックスで一番安いものを選んだのだ。ぼくはそれを買って、大学ノートに直訳的に、ぼくなりの詩語を重ねて、載っていた詩のすべてを翻訳した。しかし、その数年後に、それを廃棄した。
 もちろん、ぼくはその頃、ロレンス・ダレルについて、何も知らなかった。どうやらイギリス人らしいが、地中海の、どこかの島に住んで、地中海のことを詩っているのではないか、と想っていた。岬からアルバトロスが翔んでいる様子の詩や、帽子を被ったアルチュール・ランボーがパイプをふかしている詩のことは憶えている。(その後、ぼくも第一次青ヶ島在島時代、パイプをふかしながら白く大きな海鳥を見た。)
『黒い本』はたしか昭和五五年頃、龍生書林が蒲田にあった頃、三〇〇円ぐらいで買った。そのとき、あの詩集の詩人と同一人物だと気が付き、それで買ってみたのだ。しかし、半分ぐらい読んだところで挫折し、ペンギン文庫の詩集と一緒にしてしまい込んだはずだが、その後どこげぇまじゃけたか、てっつも、わかりんなか。
 ところが、(平成二〇年)一月八日、今は卸専門の古書店として池上へ移ってきた《龍生》の、「どうぞ、ご自由に」の段ボール箱に、この本があったのだ。ただし、行方不明の『黒い本』は中公ではなく、二見書房版だったように記憶している。とにかく、ぼくにとっては奇しき因縁だ。(そして、しばらくして、今度は渋谷で渡辺洋美訳『予兆の島』(工作舎、一九八一)を五〇〇円で見つけて読んだ。それは、まさに、ギリシアのコルフ島での、『黒い本』とも共鳴する、ダレルのイスロマニア(島狂)的世界が描かれていた。)
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