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43 東京都心の埋没した“沖島”地名
―武蔵國荏原郡(麻布領)今里村の小名「沖島」について―
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2010.09.03
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『新編武蔵風土記稿』の武蔵國荏原郡(六郷領)鵜ノ木村の飛地“奥島”(明治以降は「沖島」と表記。昭和7年、地名消滅)については、わたしは「島風とシマ神」の第18話(2006.03.05)などでもふれたことがある。しかし、同『記稿』の荏原郡には、もう一つの“沖島”があった。すなわち、『新編武蔵風土記稿』巻之五十七 荏原郡之十九の「今里村」条に登場する「小名 沖島 村の東にあり」である。わたしはその項目を見たとき、何となく、そこは「芝白金三光町」にちがいない、と想ってしまった。
昨年から今年にかけて自転車で“白金台”周辺を5回以上走ったことがある。そのとき、この麻布の“沖島”の所在地を、あらためて確かめたくなった。
その手懸りはもちろん『記稿』そのものである。「今里村」には6つの小名があるが、その1つに「蜀江臺(しょっこうだい)」がある。「村の東北沖島のつヾきなり」とある高台(丘)である。さらに、「興禪寺」の項には「境内年貢地二町六畝八歩、字蜀江臺にあり、臨済宗京都妙心寺末、大雄山と號す。(以下略)」とある。すなわち、興禪寺の所在地がわかれば、おおよその概念図が見えてくることになる。
この興禪寺の場所はすぐわかった。『東京都宗教法人名簿』(昭和55年)の「港区」の「臨済宗妙心寺派」を見ると、東京都港区白金6−14−6にあった。少し前の表記だと、芝白金三光町332である(『港区史』昭和35年)。わたしの第六感は当たっていたのである。その東側の白金4−11−1には聖心女子学院(初等科・中等科・高等科)があり、港区立神應小学校との間の坂は「蜀江坂」である。そのことから、聖心女子学院のある丘が昔の「蜀江臺」に相当することがわかる。
つまり、「沖島」はその「つヾき」、いいかえれば、隣接地であることが推測できる。ところが、ここで迷ってしまった。目黒駅方面から来ると、白金台5−21−5の国立科学博物館付属自然教育園の偉容さに目を奪われてしまうからである。しかし、自然教育園のHPをみると、同地は「徳川光圀の兄にあたる高松藩主松平讃岐守頼重の下屋敷」があった場所である。『記稿』にも「松平讃岐守抱屋敷 西の方にて拝領下屋鋪に添て抱とす、是も白金・當村入會なり、下の八ヶ所いづれも兩村入會の地にして、共に賜地に抱添となす」とあって、ここはもちろん「西の方」なので該当しない。しかも、ちくま学芸文庫『江戸切絵図集(新訂 江戸名所図会 別巻1)』(1997年)の地図の天地左右を逆にして眺めても、大名屋敷は出てきても「沖島」は見当たらないのである。
そうなると、聖心女子学院のすぐ北側の白金4−6−1にある東京大学医科学研究所付属病院(医科研病院)が気になる。ここなら『記稿』の記述とも合致してくる。しかし、何となく違うような気がしてくるのである。そこで次に目を付けたのは明治学院である。現在の住所表示だと白金台1−2−37となるが、この地はかつて「白金今里町」だった。そして、『記稿』の記述からも外れない。
戦前の地図を見ると、ここには「海軍墓地」があった。もう少し古い地図だと「海軍埋葬地」と明治学院がある。さらに明治期の地図だと、「海軍葬祭地」があったらしい。
わたしはシマには聖性と賤性が入り交じっていると考えているが、「海軍葬祭地」にもそうした性格がある。シマの霊性としては必要十分条件の土地である。ただし、病院にも似たような性格がある。医科研病院と明治学院のある場所の、どちらが「沖島」に相応しいか、まだ、明確な証拠はないけれど、わたしとしては後者のほうが有力ではないかと思う。それにしても、どうして「沖島」という地名が生じてきたのか、幾つかの理由を想像しているが、わたしの探究はたぶん今後も続くだろう。
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